新しき動き③
【武田四郎勝頼】彼は父、信玄と、諏訪頼重の娘、諏訪御料人とのあいだに産まれた、信玄の実子である。
四郎の名前の通り、嫡男、嫡流ではなく、信玄による諏訪侵攻に伴い諏訪頼重・頼高ら諏訪一族は滅亡するが、頼重の娘、諏訪御料人を自らの側室に迎え、産ませた子供である。
彼は、諏訪郡支配のために、自身の妹と頼重の子供である寅王丸を利用するが、支配強化のために、自身の実子である勝頼を、諏訪郡の押さえとして高遠城主となる。
諏訪御料人を側室に迎え入れることは、家臣はもとより、国人衆の反対が強く、信玄は、武田家の通字「信」を勝頼には与えておらず、諏訪家の通字「頼」を名乗らせていることから、初めから勝頼には諏訪家を継がせるつもりだったと思われる。
この事が、現在の勝頼を苦境に立たせている大きな原因になっているのである。
信玄遺言として、信勝が元服するまでは勝頼を陣代にと一言だけを言い残し、信玄は52年の生涯を閉じる事となった。
当然陣代として、家臣への求心力は父に及ばず、自身の政策を中々実行出来ずにいた。
勝頼は現在の織田家を注視する中で、商業流通の重要性を感じていた。
織田家の最大の強みは、物流の重要地に商業特区を造ることにより、流通商業を集約し、莫大な財力を作り出すことに成功していた。
その財力は、当時生産労働者に依存していた【兵士】の確保をも容易にしていたのである。
信長は当時としては画期的な、生産力と軍事力の分離を行っていた、農耕期に軍を編成しにくい当時の弱点を見事に克服していた。
又、ある程度の知行を取る陪臣を直臣に取り立てて有力武将に与力として付ける事により、土地に愛着を持つ土豪達をサラリーマン化を勧めた、いわゆるトップダウン方式である。
勝頼は暗愚な男ではなく、むしろ聡明で、勇猛な武将である。
彼はこの信長の飛躍的に躍進するシステムをどうしても取り入れたかったのである。
武田家はその版図をを拡大した結果、当主周辺には常駐家臣が少なくなり譜代重臣の子や親族を側近として当主に近侍しており、山県昌景・土屋昌続・原昌胤・跡部勝資などは、早くより信玄の側近として政務に精通し、家老衆として活躍していた。
信玄没後も、政務実務を取り仕切り、戦の際には300騎をまとめる侍大将として、武田家にとってなくてはならない存在である。
「徳川とこのままぶつかれば、いずれ織田家と決定的に敵対せねばなるまい」勝頼は、現在家臣団の要望に押される形で遠江進行について家老衆と議論を交わしていた。
事あるごとに父信玄と比較し、古い考えに固執する家老衆との軍議は、勝頼に大きな鬱積を貯めさせることになる。
「各々方は織田家は弱兵よ!と見くびっておるが、儂はそう思ってないのだ」勝頼が意見を出すたびに、重臣、一門より異議が飛び交う。
「信長の軍勢など一蹴にしてご覧に入れましょう!」一門衆筆頭格であり、勝頼の従兄弟である武田信豊は勝頼に遠慮することなく好織田家に対する戦論を主張するのであった。