本願寺の苦悩
織田水軍と毛利水軍の2回目の海戦は、織田水軍の圧勝により幕を閉じた。
生き残った毛利水軍の将兵達も、織田軍に投降し、捕縛された。
これにより、本願寺の封鎖作戦は、陸上、海上ともに完成し、あまつさえ海上の戦艦達は本願寺に対して艦砲射撃を始めたのであった。
これは実害もさることながら、心理的圧迫もすさまじく、寺内では発狂者が相次いで出る始末であった。
しかし信長は徹底的にこの石山にある、もはや寺というより大城塞と言っていい石山本願寺を破壊しようとはしない。
信長の頭には、この石山の地に大きな商業城塞都市を建設するつもりである。
出来れば無傷で手に入れたい。
何せ、石山本願寺が織田家と決定的な衝突のきっかけとなったのも、信長が本願寺に立ち退き要求を突き付けたからであった。
本願寺勢にとって、この石山の地を離れるのは屈辱的であり、それを受け入れなければならないほど脆弱でもなかった。
否、むしろ戦国最大クラスの動員数を誇っていた。
信者=兵士であり、各地の一向宗を扇動して徹底的に対抗したのである。
その最大規模が加賀一向一揆、伊勢一向一揆であったが、これらも織田軍の飴とも言える領民への善政により、民衆達がそれを壊す勢力をむしろ悪とみているのである。
自由に商売が出来、寺社の許可がなくてもなんでも売れる。
自分の田畑を持ち、夢も膨らむ。
正に戦国期において、唯一の上げ潮政策である。
人の噂なんかはなぜか封鎖された所にも入り込む。
『織田領の民衆達は一揆なんか起さないらしいで、そんな暇あるなら商売、農業に性を出すらしいで』
彼ら門徒衆はもともと信仰心の厚さもあるが、元来食い扶持に困り、貧困にあえぐ者たちであった。
それらを莫大な寺社収入によって、食事だけ与え、兵士として使っている。
信長が言うところの『純宗教勢力』ではすでになかった。
この頃の信長は、純粋な宗教団体としての比叡山を積極的に庇護し、浄土宗から天台宗に改宗を積極的に進める。
念仏を唱えて、都合のいい宗敵と戦い、死んでも極楽に行けるなんていう法義なんて、イカサマ以外の何物でもないと信長は激しく本願寺勢に憎悪を抱く。
門主顕如はこの事態に頭を抱えていた。
というのも、彼ら門徒の僧侶は妻帯を認めていて、必然的にその子孫達が後を継いでいく。
そういう点も、彼らは大名達となんら変わる事が無かった。
そんな中、自身の後継者であり、本願寺の貴公子でもある教如が主戦派の筆頭として、門徒達に激を飛ばしているのである。
そんな動きをしり目に、顕如は危機感を募らせていく、このまますり潰されれば本願寺そのものが消滅しかねない。
信長という恐ろしい男を敵に回して、改めてその思いは強くなる。
「そもそも敵に回したらあかんかった・・・。」
彼は、戦闘指揮官である下間頼廉にそう漏らした。
「しかし、やらんことには分からん奴らが多すぎますな、実際まだまだやれるとおもっとる坊官もおおいです。」
頼廉は戦闘指揮者である。
勿論戦術単位での戦なら織田家に一歩も引かないし、打ち破る自信もある。
しかし、すでに織田家という組織は、戦略単位での戦を始めている。
つまり、いくら戦術戦闘で勝利を重ねても、大局で押しつぶされる。
それが分かる人間がいないのである。
そんな折、朝廷よりの使者が石山本願寺に到着したのである。