反勢力への圧力
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大阪湾の制海権を本願寺勢に握られていた織田軍は、海上からの輸送に只指をくわえて見ているしかなかった。
現在陸上における敵方の物流は完全にストップしている。
しかし、遥かに大量の物資を運搬できる海上輸送は、先に起きた、海戦の大敗によりなされるがままの状況である。
信長は恐るべき経済力を背景に7隻の戦艦からなる大艦隊を組織したのである。
この戦艦は幅の広い船首を生かし、前面砲台、後方砲台、側面砲台と攻撃面に死角はなく、大砲の周りを薄い鉄板にて囲み、鉄砲の弾、矢などから砲手を守る防御方法として新しく採用され、約2000トンにも及ぶ巨大な船体には4本のマストがそびえ立ち、見た目は当時スペインなどで外洋に使われたキャラック船を発展させた形になっていた。
正に巨大な動く海上要塞である。
但し、その重装甲の為、船体重量がトップヘビーになり、復元性には弱点を抱えているが、当時竜骨を持たない和舟などに比べれば遥かに走破性も高く、何より巨大であった。
それに対し、数隻の指揮用安宅船と多くの関船、早船からなる毛利水軍は益々その威容を誇り、織田水軍なぞ大した事なしとの風潮さえ流れていた。
しかし、この時の政治状況は、織田領の東側は各国が争いに明け暮れ、さらに時の将軍である義昭が軟禁状態に置かれるにあたって、反織田勢力は連動が取れなくなっている。
各大名家、寺社勢力にあっては、武家の棟梁である征夷代将軍の下でなら、汚れ役もやるし、損も被るが、裏を返せば、各自勢力拡大に明け暮れた戦国大名達なのである。
信長は1人の将に中国地方の攻略を命じる。
中国方面軍司令官に羽柴秀吉を任命したのである。
それに伴い、秀吉に筑前守の官位を宣下させた。
しかも信長が直接上奏してのことである。
これは画期的な事で、武家が官位を正式に宣下されるには征夷代将軍を通して宣下されるのがしきたりであったが、信長自身も朝廷より直接、権大納言、右近衛大将兼任を命じられた。
命じられたというより、脅し取ったと言っても過言ではない。
当時の武家達には、天下様とは将軍の事であり、将軍が天下の象徴とみていた。
しかし、実際に官位を宣下するのは朝廷であり、帝なのである。
この事をきちんと理解している大名は実は当時いてないと言っても過言ではなかった。
あの上杉謙信でさえも、武田信玄でさえもである。
信長は、意のままに操れない義昭をそのままにし、それよりも位の高い官位につく事によって、義昭の精神的よりどころである「征夷大将軍」を無実化してしまったのである。
征夷大将軍という官位、実は朝廷の中では高い官位ではないのである。
その事は教養がある人間ほどよくわかる。
当の義昭などは恐れおののいた。
「近衛大将」というのは、武家の最高官位であり、将軍と言われている官位よりはるかに格の高い物なのであった。
事実、足利家においても最高の栄華を誇った義満ら数人しか宣下されていないのである。
それと共に従三位の位も頂き、昇殿する権利も得る事が出来たのである。
それは、将軍の専売特許である帝と対面出来る栄誉をも信長は得たのであった。
これに伴い、己の重臣に名乗り官位ではない、本物の官位を宣下させていく。
各地の戦国大名なんかより格の高い官位をあたえていくのである。
例えば秀吉が宣下された「筑前守」これでさえ直近の宣下者は実質の天下人であった三好長慶が名乗りを受けている格式の高い官位である。
ちなみに、従五位下修理亮に柴田勝家、日向守に明智光秀、左近将監に滝川一益、を合わせて織田4天王とされる。
こうして信長は、自身の権威を諸侯に見せつけた。
『まずいなぁ・・・』
毛利家では動揺が広がりつつあった。
なにせ、中国の覇者大毛利といえども、背後の大友家にも対処せねばならず、本願寺への大量の援助、これに山陰、山陽の抑えに動員をかけなければならないのである。
毛利の援軍が望めないのであれば、それはそのまま己への刃となり返ってくる事など火を見るより明らかな戦国の常識である。
しかし、時勢は毛利には味方をしなかった。
早々と別所家と波多野家が秀吉に、織田家恭順を示したのである。
信長は短気であるし、頭の回転も恐ろしく速い、であるから、結果が分かり切った事に対して、女々しく抵抗してからの投降や、手間をかけさせられる行為を非常に嫌った。
その反面、時勢を読んで早くから協力をしてくる者達は快く受け入れた。
例えば、松永久秀などはこの典型である。
彼は信長が上洛するなり、主家である三好家を見限って、早々に信長に恭順し、大和切り取り自由のお墨付きを取り付けた。
しかし、名族である両家の当主にそんな芸当は出来ない。
今回彼らを秀吉に渡りを付けたのが、後に秀吉の与力として活躍をする『小寺孝高』である。
その頃、織田水軍は紀州田辺を過ぎ、いよいよ大阪湾へ侵入準備を開始したのである・・・・。