東国三国史③
「東が揉めるとると助かるみゃあ」
信長はそう一人つぶやくと、本願寺対策に建造中の今までの日の本には無い妙な形の船を見上げながら、情報将校から武田家、北条家と上杉家の合戦の仔細報告を受けていた。
それによると・・・・・・。
謙信の野戦での強さを身でもって知る信玄は、謙信の挑発的ともとれる不利な状態での大物見に対しても静観を決めていた。
なに、謙信本軍をここに釘付けにすれば、越中、上野方面より侵攻されれば、引かざるを得なくなる、そこを悠々と平らげるつもりである。
北条勢も上杉勢の拠点である倉内城(沼田城)を囲み上杉景信、上条政繁といった上杉勢の将と対峙をしていた。
利根川と、支流の蓮根川、片品川が合流する断崖絶壁の上に築かれた倉内城は天然の要害を利用した堅城であり、北条勢も攻めあぐねていた。
この度の戦何かが腑に落ちない。
武田家の緒将らもそう感じているが、それが何かが分からない・・・・。
いつも通り、綿密な計画、諜報活動・・・・。
それでも何かが引っかかる。
それは、長年の宿敵である上杉家が相手であるからなのか。
武田家信濃先方衆、真田家の先代隠居である真田幸隆は今回の戦について、只、危うい』と感じていた。
幸隆の知る信玄は慎重すぎるほど慎重であり、決して他者の力はあてにせず、思い通りにいけば儲け位の人を食った軍の運用をしてきた。
この度の戦略構想は、あまりにも北条に期待が過ぎるのではないか?
悪く言えば人任せに写ってしまう。
『何を御屋形様は何をいそいどるんじゃ・・・。』
幸隆は武田一と言われる智謀を頭の中で巡らせたが、どの考えも一つの答えに行きつくのであった。
川中島で陣を張る武田信玄に耳を疑う報告が飛び込んできた。
『飯富昌景、内藤昌豊率いる別働隊総崩れ!!!!北条家も囲みを解き相模へ撤退!!!』
「馬鹿なっ!!!!!!」
信玄は絶叫し、その場で卒倒した・・・。
戦国時代を彩る英雄が散ったのである。
遺言として、信勝が元服するまでは勝頼を陣代にと一言だけを言い残し、信玄は52年の生涯を閉じる事となった。
そして上杉謙信率いる軍勢は、抑えの兵を残して察するように戦場から姿を消したのである。
その武田家であるが、武田勝頼は己が陣代という地位に就いたが、忌々しい思いにも駆られていた。
あくまでも陣代は陣代であり、信勝は己の嫡男といえども、武田の正当な継承者として扱われていた。
これは、諏訪家残党懐柔の為に、勝頼がこの名跡を継ぎ、諏訪氏の通字である「頼」を名乗り諏訪四郎勝頼となった事と決して無関係ではない。
なぜなら、信玄は何を思ったのか、これ以上ない残酷な方法で滅ぼした諏訪家当主、諏訪頼重の娘・諏訪御料人側室に迎え、子を産ました。それが四朗勝頼である。
諏訪の残党を抑えるのにはこれ以上ない人物である。
信玄は自身の稚拙な侵攻統治の犠牲に自身の子供たちを養子に出すしか道はなかったのである。
信長も、信雄、信孝を伊勢の名門、神戸、北畠家に養子を出すが、これはあくまで主家を傘下に治めるためで、当主の命までは奪っていないのである。
信玄は敵対する者を殺しすぎた。
後に諏訪の呪いと呼ばれる武田家の命運はこの時に決まったと言っても過言ではないであろう。
「これで東は家康に任せて、叩けるわ」
信長の前にそびえる船は、今までの和舟と違い、竜骨を持つ構造をしており、南蛮人達の船にも似ているが、少なくても大きさに至っては倍以上あると思われる。
この船をつくるにあたって、信長は色んな人達より意見を求めた。
それにより確信した事がある。『燃えなければいい』相手の火器を受け付けない船をつくる事であった。
そうして薄い金属板でおおわれた船は、秀吉に命じて国友鍛冶に作らせた『国崩し』と名付けられた大筒を両弦に備え付けられ、装甲された無数の銃眼が作られていた当時世界に類の無い装甲船として建造された。
竜骨構造を取り入れた事により、高い走破性を持ち、外洋にも耐えられる日の本唯一の艦隊を作り上げようとしている。
信長は自身の命令によって水軍衆を死地に追いやった事を悔やんでも悔やみきれなかった。
その戦闘艦達に彼らの思いを込めて見つめていたのである・・・・。
信玄逝去しました。
彼に北条家並みの統治能力があれば、恐らくは武田家の滅亡は無かったように思えます。
何せ、侵略政策が酷すぎました。
奪う、犯す、殺す、焼き尽くす。
北条家も、織田家も領民に甘い為に諜報活動をされやすい欠点もありましたが、当時の他勢力もその町の栄える姿を見て逆に戦意を無くさせる事もあったともいわれています。