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東国三国史②

3回更新分間違って消してしまい、やる気が出ませんでしたが、気合いを入れて更新です。

善光寺平の南に位置する、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。

この付近で上杉家と武田家が信濃の覇権を争った戦が「川中島の合戦」と呼ばれている。


その川中島周辺についておさらいしておきたい。

信濃国北部にある千曲川の河川洲には善光寺平と呼ばれる肥沃な盆地が広がる。

この地には現在の長野善光寺があり、戸隠神社、小菅神社などもあって有力な寺社勢力により形成されていた。


当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる湿地帯と荒地が広がるものの、河川が運ぶ肥沃な土地は肥えて、米収穫高は当時の越後を上回っており、米の収穫が低い甲斐にある武田家は常にその地を憧れに近い欲望で狙っていたのである。


しかも、善光寺平は交通の要であり、守りやすく攻めやすい戦略の上でも大変有用な場所であった。


武田家にすれば、この地より、北信濃から越後国へ至る重要地点であり、上杉家にとっても千曲川にそって進めば上野・甲斐に通じる重要地点である。


当然この地の領有権の争いは激しい物になり、元亀4年の時点では北信濃の一部を除いて、武田家の支配下に治まり、一応の終息を見せていたが、武田家の支配統治は一流とはいえず、混乱は続いている。


彼は、当時の名門武士の棟梁には珍しい、他家の土地を奪ってしまう、侵略欲を持っていた。

当時国人の盟主的な立場の守護大名も、自身の直轄地域などは有力国人とさほど変わらない者であったが、いわゆる戦国大名と言われた大名達は、直轄領を有力国人達から吸い上げ力を拡大していったのである。


これは、当時戦と言えば反乱の鎮圧、盗賊の討伐、身内争いによる戦しか知らない国人達には考えつかない感情であった。


信玄は信濃の侵略を始めた時、鬼畜ともいえる方法で諏訪家を滅ぼした。

それにより、信濃の豪族たちは悉く信玄と敵対する事になったばかりか、相手に防衛の大義名分を与えてしまったばかりか、上杉謙信まで引っ張り出してしまう事になったのである。


信玄の侵略基本は、奪い、犯し、さらい、殺しである。

女は女衒に売り飛ばし、男は奴隷として売り飛ばし、老人にいたっては皆殺しである。

当然新しい領主が領民に支持されるもなく、過酷な統治により恨みを買っていく事になる。



これに比べ、後北条家の支配政治は実に見事である。

上杉家、武田家に比べ地味ではあるが、間違いなく実力は東国一であっただろう。

これは戦国期最低税率で領国を運営し、耕作地を広げ、相模湾からの莫大な海運収入を得て、20年足らずで、みすぼらしい小城であった小田原城を、総廓、天守を構える城塞都市につくりかえたのである。


そして北条家の良政を耳にする民衆は、北条家の統治を望む。

彼らは支配地で奪うのは、領主、豪族の持っていた支配権であった。


それに引き換え、信玄は甲斐、信濃南部の一部でしか計算できる税収が無かった、民衆の一揆や、内乱に常に頭を痛めていた。

だから新しい土地を取り、名目上加増を家臣団に与えなければ軍団の維持が難しかったのである。

その答えが信濃の他勢力地帯を無くし、越後に圧力をかけ、信濃を完全に平定する事だった。



信玄は動いた。


上野方面より北条家が12000人、越中方面より武田別働隊として飯富昌景、内藤昌豊率いる8000人が侵攻、信玄本軍は海津城に陣を構え、16000人を率いて各軍の動きに合わせて越後、信濃境の飯山城をうかがっていた。


今回の信玄の作戦は3方面より信濃北部、越後西部より侵攻し、越後を脅かして、信濃北部を完全平定する事である。

又、北条家も上野の支配権を固めたい心理を、信玄は巧みに利用した。



まず戦端が開かれたのは越中である。

越中方面軍、飯富昌景、内藤昌豊率いる軍勢8,000人が、一向宗と合流し、河田長親率いる上杉軍を潰しに走る。


長親は越中新川郡松倉城に4000人の兵を持って立てこもる。

松倉城南1里ほどに着陣した武田勢は警戒体制のまま夜営に入る。

そこを長親率いる200騎の騎馬部隊で奇襲をかけたのである。

「火を放て!狙うは荷駄一つ!」

長親は一目散に、陣地に積み上げられた荷駄を狙う。


「河田長親噂ほどではないみたいだな・・・。」

武田家四天王である内藤昌豊がつぶやく。

彼らは当然着陣日の夜襲を警戒していた。

明らかに今回の戦は別働隊の進軍速度にかかっているのは、敵味方問わず分かり切った事である。

定石であれば、城にこもり、通過しようとした軍を背後から襲う位の者であるが、敵将は上杉家で頭角を現している河田長親である。

きっと何か策を弄してくるはずであった。


「夜討ちが策かよ。」

半ば拍子抜けしたように同じく武田四天王である飯富昌景がカッカッカと小気味の良い笑い声をあげる。


「どれ、私が送り狼になり、一槍馳走いたそう。」

昌景が槍をしごき、愛馬である木曽産の黒鹿毛に飛び乗る。


武田勢が騎馬部隊400騎と足軽勢が退却する長親勢に向かって追撃態勢を整えた。

それを見ながら長親は城内に退却をする。

「良くひきつけるんやで!逃げ切ったらあかんで!」

武田勢は巧みな隊列を維持したまま、騎馬隊、足軽隊にて追いかける。


長親が松倉城に帰還し、カブキ門が閉まるかの所で武田軍に取り付かれてしまう。

武田勢は城内に入り込み2番郭の矢倉門に取り付いた時、虎口の銃眼より鉄砲の制面射撃を受けてしまう。

そこに頭上より煮えたぎった粥がおとされる。

煮えたぎった粥は粘度が高く、甲冑、衣類、皮膚へと纏わりついて取れずに、重度の火傷を与えていく。


武田勢が混乱している所に容赦のない攻撃は続く。

忽ち攻め手のうち2000人程が戦闘不能になり、我先にと武田勢は陣地へと退却を急ぐ、一里先の陣地まで急いで走り込んでも少なくとも30分はかかる。

負傷した兵士たちは本能のまま逃げだしていく・・・。


長親はあえて負傷兵を打ち取らずに敵陣へと見逃した。



当時の日本の止血術は間違いなく世界一である。

刀傷医達の技術すさまじく、血止めに関しての外科技術は眼を見張るものがあった。

それゆえに、本陣にたどり着いた負傷兵は治療を施され、一命を取り留めていく。


が、それは長親の恐ろしい計略でもあった。

武田勢はなんと、手勢の4分の1に当たる戦闘不能者を、多数抱え込んでしまったのである。



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