東国三国史
時の将軍である義昭は現状を苦々しく見守るしかなかった。
自身は現在二条城にて、実質監禁状態に置かれている。
いっそのこと三好や松永みたいに殺してくれたらどれだけ楽かとも思う。
しかし、信長という合理主義者は利用出来るものはなんでも利用する男であった。
将軍家を抑える事は、越後の上杉謙信を抑える事にもつながる。
上杉謙信という男は幕府、将軍家に恐ろしいほどに忠誠を持って動いている。
幕府の役職である関東管領という名誉職を管領上杉家の養子に入る事によって、その役職を継いだ彼は、直江津より入る莫大な経済収入を背景に関東緒将の乞われるまま援軍として出兵し、捕虜、国境の敵領に侵入し奴隷売買によっても莫大な利益をあげていた。
軍神ともてはやされてはいるが、彼の強みは5000から10,000位の軍勢を指揮しての戦術的強さであり、信長の様な戦略的な包括包囲戦などはやはり発想自体無かったのである。
しかし謙信を敵に回すメリットも信長にはないし、何より甲斐の武田信玄の何よりの抑止力になっている。
加賀、越中の一向一揆も越前司令官柴田勝家によって攻められ、加賀より越後をうかがう余力も一向勢は無く、上杉家、織田家の利害も一致していた。
現在北条家は先代の死去により多少の混乱があったが、すでに代を譲られていた北条氏政は決して凡庸ではなく、着実に支配体制を固めていた。
それだけではない、氏康在命の頃は何かにつけ口出ししてきた父が亡くなった事により、自由な経済政策、軍事政策を取れた。
(余談ではあるが、武田家も、北条家も家を滅ぼしたのが偉大な先代を持つ息子達だが、彼らは過去最大の版図と繁栄を一時ではあるが築きあげている。只、自信過剰になり、周りが見えていなかったのは大いなる不幸であった。)
特に本拠地の相模湾を望む居城小田原城は、城下町をも城郭の中に取り込むほどの巨大な城塞都市であった。
ここを上杉謙信が、永禄四年、時の関東管領・上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、太田資正、三田綱秀、成田長泰ら上杉家家臣団を中心とする10万余の大軍で、小田原城をはじめとする諸城を包囲し、氏康を追い込むも結局武田家が信濃の支配権を固め牽制越後の背後を牽制し、関東緒将の不和などにより撤退している。
これにより上杉家は北条家にじりじりと押されていくが、甲斐の武田が駿河の今川領に侵攻した事により、上杉と和睦するが、氏康死後、再び北条は武田と手を結ぶ。
もとより、上野、下野、常陸などの争いの場になった地域は、名門の国人達が多く、独立連合な物であっちへ付き、こっちへ付きで、配下として組み込めない事情があった。
現在で言うと、連立政権のキャスティングボードを握り、政局を振り回す新党みたいな者である。
そんなやからではあるが、格式だけとると、甲斐の武田家は別として、成り上がりの後北条や長尾など彼らから見たら格下のくせにと思う者も多かったのである。
謙信にすれば、織田家が加賀を抑えてくれて、自身の越中攻略は非常にやりやすく、織田家との関係を崩すつもりはない。
では武田家はと言うと、こちらも織田家との争いは利が無いと信玄は攻略目標を謙信一本に絞っていた。
まだまだ駿河の支配権は確立しておらず不安定ではあるが、甲斐、信濃の運営は盤石であり、北条との同盟もある。
幸いにも信玄は本願寺勢力と不仲でない。
越中方面軍と、信濃方面軍により侵攻準備が整いかけた元亀四年、信濃善光寺に差し掛かったところで、武田信玄は体調を大きく崩した。
武田家動くの報を受けた謙信は、越中の攻略軍を河田長親に預け、自身は春日山に戻り、決戦兵力を率いて信濃川中島に進出した。