帰り方が分からない
コーヒーやトーストの香りが充満している喫茶店の隅で、何杯目かの水を飲みながら今日の取材が空振りにならない事を祈った。
発行部数の少ないオカルト雑誌はただでさえ社内の穀潰し扱いされている。
せめて面白い記事で見返してやりたい。
それが「平行世界から来た男」なのかは、神のみぞ識ると言えよう。そんなオカルト記事は今まで何度だって目にしてきた。
しかし諦めたらオカルトは終了だ。
グラスの氷が音を立てて溶けるのと同時に、がらんがらんと錆っぽいベルが鳴った。
入ってきた男が取材対象だと思った。
彼が、平行世界から来た男だ。
どうしてかは自分でも分からない。ただ、その男が発している独特の違和感がそう思わせた。
男は席に着くと、店員を呼んで言葉を置くようにハッキリと「コーヒーを、アイスで、お願いします」と注文した。
まるで外国人のようだ。
そう言う喋り方だと言えばそうなのだろう。
しかし男の話し方は違和感となって、いつまでも耳の奥で転がり続ける。
本当なのでは?嘘なら作り込みがしっかりしている。芸が細かい。
だがこの段階でボロを出される程度なら困る。……少なくない話だ。
私はレコーダーを取り出して机に置くと、やや早口で「それでは録音を開始します」と言った。
意地悪かな、とも思ったが男はじっとレコーダーを見ながら「はい」と頷いた。
まるで私はそこに居らず、レコーダーと会話をしている様にも見えた。
男はゆっくりと話した。
自分が平行世界から来たこと、その世界の違い、いまに至るまでの生活。
男の話には苦労が滲んでいた。
どちらの世界も構成する物事にほぼ違いは無く、ただ微妙な差異──例えば月曜日ではなく猿曜日だとか、コーヒーではなくギーだとか──がある、との事だった。
なるほど、それで先ほどは言葉を置く様に注文したのかと独り合点がいった。
私はメモを見ながら質問を始めた。
「どうして、またはどうやってこちらの世界へ来たんですか?」
大概は覚えていない。
気づいたらとか、車に轢かれたとか、目が覚めたらと言うのが定番だ。
つまらない返事をしないでくれ、と祈った。叶えられたことのない祈りだ。
男は少し考えて──文字通り、言葉を選んでいるのだろう──から「こちらの世界で言うところの、トマソン、と言うやつですが、ご存知ですか?」と言った。
「トマソン?」
意表を突かれて声が裏返ったが、男は意に介さず続けた。
「えぇ。意味不明な、場所にある、階段ですとか、目的不明な、ドア、です」
そう言って、ゆっくりとコーヒーを──彼の世界で言うところのギーを──を飲んだ。
トマソンなら知っている。
彼の世界ではなんと言う名前なのだろう?彼がいた世界にも同じものがあり、彼はそれを使った。
スターゲートみたいに?
しかし帰れなかった?
「トマソンなら知っています。……そのトマソンでこちらに来た、と」
「えぇ」
「むかしはそこかしこにあった気がします」
私がそう言った途端、男はさえぎるように強い口調で言った。
「今でも、あるんですよ。昔より、風景に、溶け込んでいるだけで」
「……なるほど」
「または、大人になると、そう言ったものに、注意を、払わなくなる」
確かにそうかも知れない。
目に見えるものひとつひとつを処理していく事は無くなったかも知れない。
「弟と、遊んで、いたんです。夏の、暑い日の、ことでした。
スーパーマーケットの、駐車場にある、小さなトマソンの階段を、登った先にある、ドアを潜ったら、こちらの世界に、いました」
男は小さく息を入れた。
「気づくと、私は、階段の下に、倒れていました。
同じようなスーパーの、同じようなトマソン階段の、下にいたのです。
私を、心配そうに、少年が見ていたのを、今でも、覚えています。
彼は、お兄ちゃんが助けてやる、と言いました。
最初は、年長者とか、そう言う意味での、お兄ちゃんかと、思いました。
でも、実際に彼は、私のお兄ちゃん、でした」
がらん、アイスコーヒーの氷が音をたてて溶ける。
「あれから、もう30年以上が、経っています。
まるで、私は、最初から、この世界に、存在していたかの様に、すっぽりと、はまっています。
あの日より、前のことは、頭を打ったから、覚えていなかったり、曖昧でも、仕方ないと、みんな言います」
それが彼の話だった。
幾度かそのスーパーにあるトマソンを試してみたが、帰ることはできなかった。
取材の帰り道でのことだ。
近所に潰れた飲食店があるのは気づいていたが、ツタの生い茂った看板の柱に、小さな螺旋階段があることには初めて気付いた。
階段の入り口にはプラスチックのチェーンが掛かっていて「危ないから入らないで下さい」と言う看板が下げられていた。
よく見ると、”から”の部分には白いテープが貼られていて、その上に”から”と書かれている。
「危ない”ので”と、書いてある、看板は、トマソンの、可能性が、高いんです」
男の言葉を思い出す。
まさかな、と笑う。
まるで階段から吹き下ろすように、生暖かい風が頬を撫でた。




