行きは良い良い
あの日、兄が消えた。
まるで兄なんて最初からこの世界に存在していなかったの様に、あっさりと消えた。
兄のいない世界は当たり前のように回る。
そこに違和感を持っているのは自分だけだった。
世界がおかしいのか、自分がどうかしてしまったのか分からない。
だが時折、兄が消えた場所にやってきては消えた日の事を思い出す。
兄が消えたのは近所にあるスーパーだ。駄菓子を買ったり、古いゲームなんかを遊びに通っていた。
そのスーパーにある駐車場の端に、階段があった。
トマソンと呼ばれる類の階段だった。
何の目的があって設置されたのか分からない。または何の意味があってそこに残されたのかも分からない、金属製の階段だ。
むかしはそこに倉庫でもあったのだろうか?
その階段は真っ直ぐ二階分の高さまで伸びていて、終点には白いドアが付いていた。
なんの変哲も無いドアだ。
そのドアを、兄は潜った。そして消えた。
いまも残るそのドアからは、アメリカのケーキみたいにわざとらしい青い空が広がっているのが見えた。
入道雲がどこまでも伸び上がっている。
広々とした空を切り取って、フレームにはめ込んだみたいに綺麗だった。
「お兄ちゃん」
呼べばひょっこり出てきそうな感覚。
蝉の鳴き声が強いコントラストをもって響いていて、まるで俺の影をより濃くする力があるみたいだ。
心なしか空の青さも強くなった気がする。
あの日もそうだった。
兄が消えた直後、汗が滴り落ちる音が聞こえた気がしたのだ。
「お兄ちゃん」
俺は呼びかけてみた。
兄が悪戯をしてるのだと思いたかった。
どうせ支柱にでも隠れているんだ。そうして俺がパニックになっているのを見て楽しもうと言うのだ。
そう思いたかった。
「お兄ちゃん」
雲が落とす影がよりいっそう濃くなる。
蝉がより大声で鳴く。
汗が滴る。
雲が流れる。
影が動く。
兄は現れない。
太陽は雲に隠れたままだ。
佇む俺のズボンを引っ張る手があった。
驚いて振り向くと見知らぬ少年が立っている。俺が誰か訊くより先にその少年は
「お兄ちゃん」
そう言った。
俺はまたあの階段の前に立っている。
兄が消えて35年が経った。
見知らぬ弟が俺を兄と呼んで35年が経った。
日々は兄なんてこの世に存在していなかったの様に過ぎていった。
その隙間に、俺を兄と呼ぶ存在が入り込んだ。兄と同じ形のピースを嵌めたパズルの様に。
世界はそれが当たり前だと言うように回り、親も学校もそうやって回った。
俺は受け入れたフリをして生きた。
兄の持ち物は全て俺のものだった。
けれど兄の同級生は兄を知らなかった。
「お父さん」
子どもたちが俺の手を引いた。
スーパーの駐車場に敷かれたアスファルトはひび割れ、階段は汚れが目立っていた。
それでも変わらず、そこにあった。
「あんなところに階段あるのー?変なの」
左手を握った娘が笑う。
右手を握った息子も笑う。
「危ないから、近寄っちゃダメだぞ」
階段と、消えた兄に背を向けた。
あの時と同じように雲の影は濃く、蝉の鳴き声は大きい。
汗が滴る。右手で汗を拭う。
その瞬間、右手から離れた息子が階段に向かって走り出した。
「お兄ちゃん」
娘の叫び声はあの日の俺と良く似ていた。
息子は悪戯っぽい笑い方で階段に足をかける。
まるであの日の兄を見ている様だった。
声をかける間もなく、息子は階段を登っていく。
娘が俺の左手を振り解いて、息子のいる階段に駆け寄った。
二人は揃って嬌声を上げると、階段を駆け登っていった。
濃い影を落としていた雲が流れる。
太陽が顔を出す。
蝉が鳴く。
汗が滴る。
兄が階段を登り切りドアを潜る。
「お兄ちゃん」




