第4話 危険な招き
プラチナ・グレイス最上階のレストラン。汐見市の夜景が360度のガラス越しに広がり、頭上には星々がきらめく。
篠塚澪は約束の時間より五分早く到着した。黒いサテンのキャミソールに、シャープな白いジャケット。柔らかな女性らしさと、刃物のような鋭さを併せ持つ装いだ。真紅の唇が、今夜の彼女が戦士であることを告げている。
ウェイターが案内する先の席で、氷室晶はすでに待っていた。
彼は窓の外の夜景を見つめ、手にしたウィスキーグラスを揺らしている。その指先まで、まるで精巧な彫刻のように完璧だった。横顔の輪郭が照明に浮かび、普段の冷徹さが、どこか思索深げな影を落としていた。
彼女の足音に振り向く。その視線は、ひとつひとつを確かめるように彼女の全身をなぞり、最後に瞳に深く沈めた。
「時間通りだ」
「お待たせしましたか?」
「待つ価値のあるものは、常にある」
氷室晶はそう言うと、メニューを彼女に向けて軽く揺らした。一切の無駄を省く、彼流の挨拶だった。
篠塚澪はメニューに目を通すふりをした。しかし、ウィスキーの淡い香りと、彼の纏う冷たいオーラが、思考を邪魔する。彼と同じ前菜とメインを選び、ウェイターに告げた。
テーブルに沈黙が流れる。街の喧騒は遠く、二人の間に張り詰めた空気だけが生々しく存在する。
「氷室社長——」
「企画書は読んだ」
彼女の呼びかけと同時に、晶が口を開いた。
彼はわずかに身を乗り出し、組んだ指の上から鋭い眼差しを向ける。
「見事なものだ。そして、無謀に等しい」
篠塚澪の心臓が、警告のように一拍鳴った。
「汐見のハイエンド市場は旧勢力が牛耳っている。販路、人脈、信頼……『革新』だけでは崩せない城壁だ」彼の指が一つ、テーブルを軽く叩く。「なぜ、お前なら成功する?」
核心を突く質問に、篠塚澪は背筋を伸ばした。
「『リネア』という名前自体が、欧米のトップ層ではパスポートです。この街には、私という刺激が必要。そして私は、彼らが知らない価値をもたらせる」
彼女は一息置き、晶の目をまっすぐ見つめた。
「販路と人脈——まさに、氷室社長という“核”が必要な理由です」
氷室晶の口元が、ほんのり、しかし確かに緩んだ。それは笑顔ではなかった。餌に食いついた魚を見る、満足の表情に近い。
「模範解答だ。準備は万全のようだな」
前菜が運ばれ、沈黙が戻る。食事中の会話はなく、ナイフとフォークの音だけが、奇妙な親密感を醸し出していた。
メインディッシュで口を拭った晶が、突然、雷のように静かに言った。
「五年前、お前は完璧に消えた」
篠塚澪の手が止まる。指先が白くなる。フォークを持つ手が微かに震え、銀器が静かに音を立てた。
「人は……前に進むものだと存じます」
「なら、なぜ戻った?」晶の視線は、彼女の震える指先に釘付けだ。「この場所に、どうしても消せないものが残っているのか?」
「氷室社長は、私の過去にご興味が?」
「俺は、ビジネスパートナーの“動機”に興味がある」
彼の声は低く、そして残酷なまでに理知的だった。
「憎しみは不合理な判断を生む。ビジネスの敵だ」
ついに、核心が露わになった。
篠塚澪は深く息を吸い込み、瞳を上げて晶を見据えた。彼女の視線もまた、一歩も引かない氷のようだった。
「おっしゃる通り、憎しみは無意味です。私が戻ったのは——奪われたものを、正当な手段で、すべて取り戻すため」
彼女の声は静かだが、鋼の意志を宿している。
「弱肉強食、勝者がすべて。これこそが、ビジネスの論理ではありませんか?」
氷室晶は答えない。長い間、彼女を見つめ続ける。その瞳の底で、何かが滾っている。
やがて、彼は微かに手を挙げた。
ウェイターが現れ、濃紺のベルベットの箱をテーブルに置く。
晶はそれを、篠塚澪の前に滑らせる。
「開けろ」
篠塚澪はためらい、蓋を開けた——中には、モンブランの最新作が静かに横たわっていた。黒い樹脂にプラチナの象嵌。冷たく、美しく、圧倒的な存在感。
彼女の鼓動が、一瞬で乱れた。
本当に……買った? まるで、彼女の人生がすべて手のひらにあることを示すように。
顔を上げ、疑問を溢れさせた彼女に、晶は淡々と告げた。
「その言い分は正しい。氷室氏は強者だけを選ぶ」
彼は身を乗り出し、声を潜めた。誘惑のように甘く、刃のように冷たい声で。
「望月結衣……お前のものを取り戻したい?」
「己が非凡さを証明したい?」
「あの男女を、地の底まで叩き落としたい?」
彼女の息が止まる。胸が苦しくなるほど、彼の声は耳の奥で響いた。
「その機会を、俺がくれてやる」
「……条件は?」彼女の声は渇いていた。
晶の指が、万年筆のキャップを軽く叩く。
「条件は一つ」
彼の視線は、彼女を逃さない。
「この瞬間から、お前のゲームは、俺のゲームだ」
「お前の勝利は俺の利益。お前の失敗は——」
一拍置き、瞳の奥に冷たい業火が灯る。
「俺の損害だ。そして俺は、損害を許さない」
「存分に暴れてみろ。お前のやり方で、欲しいものを奪い取れ」
「だが、肝に銘じておけ。お前は今——」
「俺の管理下にある」




