第20話 迫りくるサイレン、そして健太郎の介入
あの夜、篠塚澪はほとんど眠れなかった。
晶の言葉が、頭の中でしつこく反復される。一言一句が灼熱の温度と破壊力を帯び、五年かけて築き上げた氷の防壁を絶えず突き崩す。
「俺は…お前を、ずっと探していた」
「五年は、十分に長かった」
「ただ、もう五年前のように……反撃もできず、醜く逃げるお前を見たくなかった」
なぜ?
もし探していたなら、なぜ何の気配も感じられなかったのか?
もし気にかけていたなら、なぜ再会後、あれほど冷酷に接したのか?監禁、脅迫、コウを駒に……。
だが、あの眼差し、嗄れた声、片膝をついた姿勢——それらがすべて偽物だとは、どうしても思えなかった。
理性と感情が頭の中で刃を交え、彼女を疲弊させ、引き裂く。彼の欺瞞と支配を憎む。しかし、彼の言葉に潜む、わずかな……真実の可能性を、完全には否定できない。この不確かさは、直截な憎悪よりも、彼女を深い恐慌に陥れた。
夜明けと共に、澪は少し腫れた目と青ざめた顔で寝室を出た。
ダイニングでは、晶がすでに座り、経済紙を読んでいる。手元にはブラックコーヒー。シンプルな灰色のルームウェアが、朝日に照らされ、冷徹な輪郭を幾分か和らげる。どこか……家庭的ですらある。
足音に顔を上げると、視線が一瞬、彼女の顔を掠めた。
「朝食を食べろ」
淡々とした命令形だが、以前のような冷たさは薄れている。
コウは子供用椅子に座り、小さなスプーンで蒸し卵を口に運ぶ。澪を見て、にっこり笑った。
「ママ、おはよう!」
「おはよう、コウちゃん」
澪は無理に笑みを作り、息子の額にキスをし、隣に座る。
朝食は洗練された中華点心と、優しい味わいのお粥。晶の普段の冷たい洋食スタイルとは明らかに異なる。
晶は新聞を置き、箸を取ると、黙って海老餃子を一つ、澪の皿に置いた。小籠包はコウの皿に。自然な動作だが、どこかぎこちない——気遣いすら感じられた。
澪は透き通る海老餃子を見つめ、胸の奥が微かに疼く。俯き、黙って噛む。味は、蝋を噛むように淡い。
朝食は驚くほど静かだった。食器の触れ合う音と、コウの幼い声だけが響く。
晶は何も言わず、ただ時折二人を見つめる。その眼差しは深く、読み切れない。
この奇妙な、ほとんど「平和」と呼べる空気は、衝突よりも澪を居心地悪くさせた。
食後、晶は出勤の支度を始める。立ち上がり、澪を見つめる。
「今日は家にいろ」
「……なぜ?」
会社に連れて行かれ、会議やプロジェクトに放り込まれる生活に慣れていた彼女は、思わず反応する。
晶の視線が、目の下の薄い隈を掠める。
「休息だ」
一呼吸置き、付け加える。
「午後、コウを乗馬教室の体験に連れて行け。場所は運転手が知っている」
反論の余地も与えず、彼は去っていく。
澪は立ち尽くし、背中を見送る。心は乱れ、千々に砕けそうだ。
(…これが気遣い?それとも、さらに深い試練?)
一日中、澪は落ち着かなかった。夏目秘書から送られてくる仕事を処理しようとしても、集中できない。晶の朝の振る舞いと昨夜の言葉が、交互に頭をよぎる。
午後、澪はコウを郊外の高級プライベート乗馬クラブに連れて行く。
環境は美しく、施設は豪華。コーチもプロフェッショナルで根気強い。
コウは初め怖がっていたが、温厚な子馬とコーチの励ましで、すぐに笑顔を見せる。頬は赤く染まった。
澪はコース脇でそれを見つめ、複雑な想いにとらわれる。
晶がコウに用意するものは、すべて確かに最高級だ。特注の乗馬服や防具の細部まで、気が配られている。
(…もしこれが、支配と脅迫のためでなければ、どんなに素晴らしいだろう。)
レッスン後、コーチが澪に近寄り、伝えてきた。
「氷室社長からのご指示です。坊ちゃんが気に入ったなら、毎週お越しください。隣接の子供用ゴルフとフェンシングの体験も手配済みで、どちらがお好みかご覧ください」
澪は聞きながら、言い知れぬ感情に押し流される。
(…彼はここまで用意している。まるで、本当に子供の成長を思う父親のように……。)
帰路の車中、コウは興奮し、乗馬の楽しさを語り続ける。
「おじさん、すごいね!」
澪は息子の曇りのない笑顔を見て、初めて自身の憎悪と復讐計画に揺らぎを覚える。
(コウのためなら……もしかして、妥協も……?)
その考えが頭をよぎった瞬間、彼女は激しく打ち消す。
(甘えるな!あれは人心操縦の達人だ。きっと、また何かの策略に違いない!)
夜、晶は普段より早く帰宅する。
スーツを脱ぐと、まずパズルで遊ぶコウの元へ行き、かがんで頭を撫でる。
「乗馬、楽しかったか?」
「うん!楽しかった!おじさん!コウ、馬、好き!」
晶の口元が、かすかに緩む。
「気に入ったならよし」
立ち上がり、傍らに立つ澪を見る。澪は無意識に視線を逸らす。
夕食時、空気は相変わらず沈黙していたが、以前のような冷たさはない。
晶はコウの一日について、ぎこちなく尋ねる。確かに、会話を試みているのだ。
就寝前、晶はコウを部屋に連れて行こうとする澪を呼び止め、薄いファイルを差し出した。
「これは?」
「見よ」
それ以上説明せず、書斎へ向かう。澪は訝しみながらファイルを開く——中には、株式譲渡契約書の草案と、氷室悠斗の横領および白石華蓮とのインサイダー取引の初期証拠の写しが!
心臓が激しく跳ねる。
契約書には、「涅槃」プロジェクトと関連事業の利益配当権15%を、彼女の名義に譲渡するとある。証拠は未完成だが、悠斗と華蓮を追い詰めるには十分すぎる!
彼は……何を意味する?飴と鞭?それとも……?
澪は紙の束を握りしめ、指を微かに震わせながら、胸中の荒波を感じる。
書斎へ向かうと、ドアはわずかに開いており、晶が窓際で電話する背中が見えた。疲労の色を滲ませている。
「……ああ、証拠は継続して集めろ。急ぐな……彼女自身に処理させよ……監視は緩めに……」
途切れ途切れの声。澪の胸が締め付けられる。
(「彼女」とは私?彼は私に証拠を渡し、自分で復讐させようとしている?権限を譲ろうとしている?)
晶は物音に気づき、振り返る。視線が交錯する。
澪は、彼の瞳に完全には隠し切れていない複雑な感情を見た——関心、査定、そして微かな……「期待」と呼べるもの。
彼は電話の相手に「以上だ」と告げ、切る。
「用か?」
視線は彼女の手にある書類に落ち、声は平静だ。
澪は口を開く。千の言葉が喉で渦巻き、一言も出せない。
(なぜこんなことを?また策略か?感謝すべき?それとも、この書類を叩きつけて、施しはいらないと叫ぶべき?)
結局、彼女は書類を強く握りしめ、俯いて、かすれた声で言う。
「……ありがとう」
そして、脱兎の如く背を向け、走り去る。
晶は彼女の慌てた背中を見つめ、瞳の色を夜のように深くする。ほとんど聞こえないため息を漏らす。
部屋に逃げ帰った澪は、閉じたドアに背を預け、心臓が狂ったように鼓動する。手にした書類は、火のように熱く感じられた。
彼女は、自身の強固な心の防壁が、恐ろしい速度で崩れ落ちていることに気づく。
そして最も恐ろしいのは——彼女自身が、それを、ほんの少し……期待していることだった。




