第14話 微光と鎖
あの夜、篠塚澪はほとんど眠れなかった。
主寝室の、広く柔らかいベッド。しかしそれは、審判の法廷のように冷たい。彼女は暗闇で目を見開き、天井のシャンデリアの輪郭をぼんやり見つめ続ける。氷室晶の言葉が、冷たい鎖のように絡みつき、息を詰まらせる。
「お前の価値を証明しろ」
「息子をしっかり見ていろ」
一言一言が、母親として、人間としての彼女の存在意義を量りにかける。屈辱と怒りが静かに燃え上がるが、それ以上に強いのは恐怖——コウちゃんを失う恐怖、そして氷室晶に完全に飲み込まれる恐怖だった。
夜明け前、彼女はうとうと眠るも、悪夢にさいなまれた。
ドアの外の微かな物音に目を覚ます。
薄明かりがカーテンの隙間から差し込む。息を殺し耳を澄ますが、音は消え、幻聴かもしれない。
静かに起き上がり、裸足でドアへ向かう。
廊下には誰もいない。だが、視界の隅に、ドア前の絨毯に置かれた“何か”が飛び込んだ。
それは新しい、柔らかい恐竜型の子供用スリッパ。隣には整えられた彼女の仕事着、靴、ハンドバッグまで揃う。タグ付きのまま。徹夜で用意されたことが一目でわかる。
メモも言葉もない。
まるで無言の施し——主人の機嫌を取らねば、生活の基本すら与えられない囚人としての立場を突きつける。澪はそのすべてに目障りを感じ、投げ捨てたい衝動を必死に抑える。衝動は禁物。氷室晶は選択を迫った。ならば、彼女は選ばねばならない。コウちゃんのために、生き延び、駆け引きを続けねば。
無表情で服とスリッパを手に取り、着替える。サイズは完璧。最高級カシミアの肌触りは罪深く心地よい。その心地よさが、かえって不安を煽る。完璧なシルエットが体のラインを描く。鏡に映る自分は、冷艶で洗練されているが、魂を抜かれた人形のよう。
深く息を吸い、すべての感情を押し殺し、ドアを開けて歩み出す。
子供部屋のドアは開き、コウちゃんの小さな、歓喜の声が響く。
澪の心臓が高鳴る。足早に近づく。
部屋では、コウちゃんが絨毯に座り、新品のおもちゃに囲まれている——限定版ロボット、等身大恐竜、精巧な天体望遠鏡。そして、カジュアルな服姿の氷室晶が床に座り込み、宇宙船模型を手に組み立てを研究している。
朝日が差し込み、普段の冷徹さをほんのり和らげる。視線が交錯する一瞬、晶の瞳に、微かな揺らぎが過ぎる。すぐに伏せ、淡々と言う。
「起きたか。朝食は階下だ」
昨夜の冷たい対峙と残酷な取引が、なかったかのように。
コウちゃんは笑顔で電動恐竜を掲げる。「ママ見て!鳴くんだよ、歩くんだよ!」
澪は無理に笑みを作り、近づく。「気に入った?」
「うん!」コウちゃんは力強く頷き、望遠鏡を指さす。「夜になったら星の見方教えてくれるんだって!」
澪の笑みは張り付いたまま。警戒心と詰問の色が浮かぶ。
晶は宇宙船モデルの最後のパーツを渡すと立ち上がる。影が澪を覆い尽くす。
視線は彼女ではなく、襟元に落ちる。声は小さいが、掌握者の権利を主張する響き。
「今日から、お前は私と共に会社へ行く」
澪は息をのむ。「え?」
「価値を証明したいのだろう?」晶はついに目を合わせる。深く、読めない感情を帯びた瞳。
「『涅槃』プロジェクトに氷室氏グループが出資する。お前は責任者兼ブランド代表として全過程に参与する」
一拍置き、口調に氷の嘲笑を混ぜる。「それとも家に残り、子守りに専念するか?」
澪は呆然。想像もしなかった形で縛りつけられ、仕事と利益でさらに束縛される。
拒否は許されない。拒めば「価値を証明」する機会を失い、真の自由も失う。
「……わかりました」
歯の間から言葉を絞り出す。
晶は満足も示さず、淡々と一瞥する。
「十分後、階下に来い」
言い残し、子供部屋を出て行った。
澪は立ち尽くす。
満面の笑みで遊ぶ息子。廊下奥に消える晶の背中。
まるで見えぬ緻密な網が降り、彼女をさらに絡め取る。
彼は彼女に鎖をかけた。だがその鎖には金色の微光が鍍金されている。
他に選択肢はなかった。




