第1話 涅槃、そして帰還
プラチナ・グレイスホテルの慈善夜会。
クリスタルシャンデリアの光が会場を白く照らし、金と権力の香りが交錯する。
香水とワインの混ざった空気は、まるで薄氷の上を歩くように、緊張を孕んでいた。
氷室悠斗は苛立っていた。
社交辞令の笑顔、無意味な会話――どうでもよかった。
視線は、何度も会場の入口へと向けられる。胸の奥の期待と焦燥が、かすかな冷汗と共に波打つ。
「何を、見ていらっしゃるの?」
傍らに立つ白石華蓮は、純白のドレスで優雅な笑みを浮かべ問いかけた。
しかし、その指先は掌に深く食い込みそうな力を秘めていた。
悠斗の心ここにあらざる様子を、彼女は察していた。
「なんでもない」
悠斗はワインを一口含む。
今夜の彼の頭を占めていたのは、初登場の謎めいた女性華僑富豪の噂――
彼女こそ、彼が是が非でも手に入れたい新エネルギープロジェクトの鍵を握る人物だった。
華蓮が何か言おうとしたその瞬間——
会場の空気が、凍りつく。
入口から、微かな、しかし抗えないざわめきが湧き上がる。
全ての視線が一箇所に集まり、光までもが彼女を追った。
一人の女が、静かに足を踏み入れた。
深緑のベルベットのロングドレスが、しなやかな肢体を描く。
雪のような肌に漆黒の髪。紅い唇は月光にくっきりと浮かぶ。
過剰な装飾は一切なく、耳元で揺れるダイヤのフリンジイヤリングだけが、かすかな光を放つ。
その美しさは、暗闇に忽然と現れた星――
眩しく、危険で、一瞬で全ての者の息を奪う、攻撃的な魅力を帯びていた。
「あの人、誰?」
「リネアだ!イギリスの新興ジュエリーブランドの創業者だ!」
ささやき声が潮のように広がる。
氷室悠斗は、ほとんど息を止めていた。心臓が一拍、跳ねる。
数多の美女を見てきた彼だが、心臓の奥が揺れるのを感じた。
その目元に、どこか奇妙な見覚えを感じながら。
白石華蓮の笑顔は消えた。
かつての「学園のマドンナ」としての誇りが、初めて打ち砕かれる感覚。
とりわけ悠斗の瞳に宿る、隠せぬ驚嘆と興味が、鋭い刃のように彼女のプライドを切り裂いた。
篠塚澪――今はリネアと名乗る女は、視線の矢が四方八方から突き刺さるのを感じながら、心を氷で覆った。
五年。ようやく、戻ってきた。
足元の柔らかいカーペットより、五年前の冷たい床の感触の方が、記憶に深く刻まれている。
「ああ、まだあの『おしどり夫婦』のままだ」
彼女の視線が悠斗と華蓮を正確に捉えた。
指先が微かに冷たくなる。すぐに、激しい憎悪と密かな愉悦に変わる。
紅い唇が、微かに弧を描く。
給仕のトレーからシャンパンを手に取り、彼女は落ち着いた足取りであの男女に歩み寄る。
悠斗は鼓動が速まるのを感じ、無意識にネクタイを整える。
彼女は、俺のところへ——
華蓮は全身をこわばらせ、戦闘態勢に入る。
しかし、篠塚澪は数歩手前で立ち止まった。
視線は悠斗を路傍の小石のように軽く見下ろし、さらにその後ろ、柱の傍に立つ男へ真っ直ぐに向けられる。
氷室晶――
氷室氏グループの真の支配者。悠斗の叔父。
完璧に仕立てた黒いスーツが、周囲の喧騒とは異質の冷徹なオーラを放つ。
彼こそ、計画の最大の変数……そして最も鋭い刃。
篠塚澪は呼吸を整え、この男によって引き起こされる感情の揺らぎを必死に押し殺す。
彼女はまっすぐに氷室晶へ歩み寄る。
ハイヒールが大理石の床を叩く音が、戦太鼓のように響く。
周囲の驚愕の表情が広がる。
悠斗の期待は瞬時に凍りつき、無惨に砕け散った。
まさか、自分に向かってくるわけではなかったのか――
プライドが踏みにじられる衝撃。
篠塚澪は晶の前で立ち止まり、ビジネスライクな完璧な微笑みを浮かべた。
「氷室社長?」
晶の視線がゆっくりと彼女の顔に落ちる。その眼差しは極めて深遠で、あらゆる偽装を見透かすようだった。
「かねてよりお噂は伺っておりました。リネアと申します」
彼女は細い手を差し出す。
「ぜひ、お仕事をご一緒できる機会があればと存じます」
晶はすぐに手を出さず、彼女をじっと見つめる。
数秒の重い沈黙が、空気を張り詰めさせる。
ようやくゆっくりと手を上げ、軽く握手した。
掌は乾いていて温かく、薄い胼胝があり、触れたかと思うとすぐに離れた。
「リネア嬢」
低く心地よい声は、何の温もりもなかった。「光栄です」
彼女が内心を落ち着け、社交辞令を述べようとしたその時——
「だがな」
晶が微かに身を傾け、耳元に顔を近づける。
二人だけに聞こえる音量で、ゆっくりと付け加えた。
「もしかしたら——望月 結衣と呼ぶべきだったか?」
澪の笑顔は凍りつく。
血の気が引いていく。冷たい恐慌。
完璧な偽装も、この男の前では透明な笑い話だった。
指先が掌に食い込み、鋭い痛みが微かに彼女を冷静に保たせた。
「氷室社長……人違いでは?」
声が、微かにこわばっている。
晶は体を起こし、彼女を見下ろす。その眼差しには、ごく薄い、残酷なほどの興味が過ぎる。
「そうか?」
手中のグラスを揺らし、琥珀色の液体が壁を伝う。
「五年前、ロイヤル・パレスホテル、1107号室の外の廊下監視カメラの映像……綺麗に削除されていたが、バックアップを残すのが好きな人間もいるものだ」
ロイヤル・パレスホテル、1107号室。
彼女が不倫現場を目撃し、心を砕かれた場所。
彼は……あの日を知っているのか。
心臓は狂ったように鼓動する。
その時、悠斗が我慢できず近づいてきた。
「叔父様、リネア嬢、何を話していらっしゃるんですか?」
無理やり作った笑み。視線は澪に釘付けだ。
澪は深呼吸し、晶がもたらす巨大な圧迫感を無視した。
悠斗へ向き直り、紅い唇が弧を描いた。笑みは瞳まで届いていない。
「氷室部長」
口調は穏やかで、微かに確かな冷笑を帯びている。
「お目にかかれて光栄です。貴方様と**奥様**は……まさしく美男美女、絵に描いたようなご夫婦ですね」
「奥様」 の二字を強調する。
悠斗の笑顔が凍りつく。
白石華蓮の顔色が真っ青になった。
「我々は……」悠斗は無意識に弁解しようとした。
澪は機会を与えない。
再び晶へと視線を向け、口調は平静で、かすかに挑発的だ。
「氷室社長は噂通り、並外れた観察眼のようですね。ですが、名前などただの記号。大切なのは今と未来、そうでしょう?貴方様との……協業を楽しみにしております」
軽く頷き、もう誰も見ることなく、くるりと背を向けた。
深緑のスカートの裾が、優雅な弧を描く。
心神を激しく揺さぶられた悠斗と華蓮。
感情を読み取れない氷室晶。
晶は、彼女の去っていく背中を見つめる。
しなやかでまっすぐなその姿は、風に立ち向かい、決して屈しない青竹のようだ。
酒を一口啜る。ピリリとした液体が喉を滑り落ちる。
“望月結衣。お前は秘密と棘を纏って戻ってきて、最初に私を煽る。良いだろう。”
“このゲーム、俄然面白くなってきた。”
口元に、薄く、不敵で愉悦を湛えた弧が浮かんだ。




