第95話 帝都暴走 15
阿羅業の机上には、達郎の実験履歴、ノート、研究中行った。遺伝子のノック・イン、ノックアウトの履歴が精密に綴られていた。
南陽熱帯医学研究所で達郎が行ったこと。全てがここに集約されている。研究の履歴は何一つ見落としてはならない。
紙の行間に書き込まれた、赤いインクの覚書が、血のように薄く光っている。
阿羅業が白衣の袖をまくり、無言のまま達郎の研究ノートを一枚ずつめくっていた。
研究室はいつものように、低温度に空調管理がされていた。基本、摂氏十八度。阿羅業がこの部屋で、文献・データにまみえるときの定常状態であった。
加奈子は隣で、その手の動きを見つめていた。
指先が震えていたのは、研究室の寒さのせいだけではなかった。
達郎のノートは整然としていた。
実験経過、数値、感染曲線――。
偏執狂的な詳細な記載には、背筋が凍りつくほどだった。
「柘植が、超一流の研究者であったのは幸運だった……」
阿羅業がぽつりと漏らした。
殆どが理路整然と結果が書き記されている。が、時折り、ページの余白に、奇妙な書き込みが点々とあった。
赤い文字で書かれた数列。
消し残しのように薄く擦れたDNA配列の断片。
そして、塩基配列の中に不自然な欠落。
「……おかしい」
阿羅業が低く呟いた。
顕微鏡を覗くようにノートを覗き込み、
唇で何かを数えた。
「A、G、C、T……。だが、塩基の順列がおかしい。いや、おかしいのではなく、意図的におかしくしてある」
加奈子が身を乗り出す。
「おかしい?」
「おかしな順列の位置を調べると、あるパターンが現れる。そのパターンが現れるのは――dsx遺伝子座位だ」
その名を聞いても、加奈子には意味が分からなかった。
だが、阿羅業の顔は蒼ざめていた。
「エクソン5、奴が造った蚊の、dsx遺伝子の塩基配列のうち、タンパク質の情報を含む部分の第5番目の部分、ここを意図的に遺伝子操作しているのだ。これだと、繁殖させても、雄しか生まれない……。分子ナイフ《CRISPRーCAS9》で改変されたX染色体破壊系……、雄だけを残し、雌を絶やす仕組みだ」
加奈子は息を呑んだ。
「それって……」
「スーパー・タイガー・モスキートは、最終的には繁殖しない。十世代を待たずに自滅する。更に、雄は人間の血を吸わない。人を毒殺することもない。柘植は、悪魔の遺伝子の中に滅びを組み込んでいた」
部屋の時計の音が、やけに大きく聞こえた。
誰も言葉を発せなかった。
加奈子は震える指で、赤い文字の行をなぞった。
その文字は、もう消えかけていた。
「……これが、彼の"最後の抵抗"なのね」
阿羅業は頷いた。
「煉脈連の誰も気づかなかった。彼は奴らの手の中で、静かに裏切ったんだ。正義の科学を使って、悪の科学を滅ぼそうとした」
加奈子の胸の奥が熱くなった。
自分の頬を涙が伝っていることに、気づかなかった。
柘植達郎。
汚名を被り、沈黙のまま死の縁に立った科学者。
だが、その沈黙の裏で、確かに人間の正義が息をしていた。
綾香が扉の外から顔を出した。
「先生……これを」
手渡されたUSBメモリを、阿羅業が受け取る。
モニターに繋ぐと、フォルダが立ち上がった。
白と黒の数列が、光の中で走る。
彼の償いの証となる、遺伝子操作の履歴。
そして、画面の下に、淡く浮かび上がった三行の文字。
それは、柘植が最後に残したログデータだった。
> 神は過ちを犯しても、償わない、それが神の導きだからだ。
> だが、人は過ちを犯しても、償うことが出来る。
> だから、私は、過ちを正す。
誰も動けなかった。
阿羅業は静かにモニターの電源を落とした。
「……終わっていない。奴の意志が残っている限り、科学はまだ救われる」
加奈子はゆっくりと目を閉じた。
柘植の残した赤いインクが、罪と贖罪の境界を滲ませながら、まるで人が流した血のようにノートの中で光っていた。




