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第93話 帝都暴走 13

 埼京医科大学付属病院、外科系回復期病棟。


 阿羅業が病室の扉の影から静かに加奈子を招いた。彼の眼は相変わらず、獣のように炯々と光っていた。


 柘植の入院している回復期病室は、医療器械のモーターがわずかな音を立てている以外には、何も聞こえない。


 酸素吸入器が、規則正しく呼吸を刻んでいた。


 柘植は命を取り留め、人工呼吸器からの離脱を果たし、現在は気管カニューレの管が柘植達郎の喉に刺さっていた。


 そこから延びる細いチューブが無機質的な線を描いている。


 両腕は固くギプス帯に拘束され、掌は指先からの感覚を掴めぬまま閉じている。


 顔は、まだ人間の色を残している。だが唇は動かない。


 発する言葉は喉の奥で砕け散っていた。発語能力は、まだ失われたままだ。


 加奈子はゆっくりとベッドサイドに近づいた。


 緊張していた。心臓が自分の胸の中の心臓が小さく、軽く、何発も殴られているような動悸を感じていた。


 柘植の瞳は薄い角膜の向こうで揺れていた。瞬きは鈍い。だが目は、こちらを見ている。意思がそこにあるのが分かった。


 加奈子は息を整え、声を落とした。刑事の声を捨て、ただ一人の人間として話し始める。


「達郎さん」


 名前を呼ぶだけで、部屋の温度が変わるようだった。


 柘植のまぶたがほんのわずか震えた。


 加奈子は続ける。言葉を選びながら、しかし迷いはない。


「私は、警視庁刑事、涌島加奈子。私は、貴方を犯罪者扱いはしない。もし、貴方を犯罪者と呼ぶなら、原子力爆弾の父、オッペンハイマーも、大量殺人者と呼ばれるべきだ。歴史はそういう顔を持つ」


 薄い沈黙が落ちる。


 吸入器の呼吸音が、すくった手のひらから零れる砂のように静かな音をたてる。


「だが、結果は結果です。あなたのかかわった研究がもとで、かけがえのない命が失われ、東京の街が燃えた。それは無かったことにはできない」


 加奈子の声に柔らかさが滲む。刑事の冷徹を脱ぎ捨て、ひとりの女の胸の痛みを晒す。


「だから約束する。もし貴方が、本当に協力してくれるなら――貴方のしたことは、私が墓場まで持っていく。法廷で晒すつもりはない。だが、真実を隠すのではなく、解決に使わせてほしい」


 阿羅業の影が動かない。彼は命を救うことと正義を秤にかける男だ。今はただ、二人を見守っている。


 柘植のまぶたがゆっくり一度落ち、また開いた。わずかだが確かな動き。目の奥で涙が光った。カニューレの先で、空気が擦れる。


 加奈子はそっと指を伸ばした。手のひらを彼の額に当てると、ぬくもりが伝わる。


「達郎さん、これから聞くことに答えてくれるかしら。イエスは一回まばたき、ノーは二回まばたき。わかった?」


 柘植の瞳が一点に定まり、ゆっくりと小さなまばたきをした。――一度、そして確かに。


 加奈子の胸の奥で、何かが切れた。言葉にならない安堵と、同時に重い責任が落ちてくる。


「ありがとう。まず聞きたいのは――あのcDNAは誰がロンドンから持ち出したのか。李雪蘭ですか?」


 カニューレ越しに、柘植の胸が小さく揺れる。まぶたが一度閉じ、すぐ開いた。


 加奈子は眉を寄せ、紙のように冷たい手帳を取り出す。メモを取り、次の質問を考える。尋問は、言葉ではなく、まぶたの数で進む。


 時間は遅々として進むが、ひとつひとつの瞬きが、とてつもなく重い速さで未来を動かしていった。


 彼は答えた。イエス、とノーを織り交ぜながら。罪の輪郭が、少しずつ暗闇の中に浮かび上がってくる。


 阿羅業が低く呟いた。誰に向けた言葉か、誰も知らない。


「人を救うために悪を犯す――その言葉の曖昧さを、俺たちは今、裸にする必要がある。柘植は、そもそも犯罪を犯す気はなかった」


 加奈子は顔を上げ、阿羅業の眼と、柘植の眼を見比べた。


 濁りのない光が二人の男の眼に映っている。


「もう一度繰り返す。貴方の罪は、私が墓場まで持っていく」と、彼女は冷静に言い放った。


「ただし、嘘をつけば、その代償は想像以上に重い。私も、あなたのしたことを隠しはしない。それは私が決める」


 柘植のまぶたに、もう一粒、涙が滲んだ。


 彼には声がない。だが、まばたきの合図が止むことはなかった。


 外の世界では、街がまたひとつ鳴りを立てている。だが、この部屋だけは時間が別の軸を持っていた。

 

 生と罪と贖いが、三人の中で激しくぶつかり合っていた。


 加奈子はペンを握り締め、次の質問を書き込んだ。目の前の男が犯罪者であれ、天才であれ、あるいはその両方であれ、今は答えを聞くしかない。真実が、彼女の掌の中で静かに震えていた。

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