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第92話 帝都暴走 12

 ゼロクラウンは、武蔵野精神神経研究センターのゲートをくぐり、裏口へ回った。

 異様なほど静かだった。

 建物の二階へ、萩枝は靴音を殺して上がる。

 踊り場で、看護師が煙草を吸っていた。


「……あんたが、例の刑事さんか」

「ああ」

 茶封筒を差し出す。封筒は膨れていた。

「今から三十分、誰も見なかったことにしてくれ」


 看護師の目がわずかに揺れた。

「あの男はもう長くない。酸素の電源を落とすだけでいい。静かに逝かせてやれ」


 封筒が受け取られた。

 紙幣の重みが、女の手を沈めた。

「……分かりました」


 萩枝は背を向けた。

 廊下を歩くうちに、胸の奥でざらついたものが膨れ上がる。

 手を汚さずに済むはずの仕事。

 それなのに、背中の皮膚は汗で濡れ、鼓動がやけに速い。


 車に戻り、煙草に火をつけた。

 灰が静かに崩れた。

 長針が半周を回る頃、萩枝は再び病院の二階にいた。


 廊下は冷たかった。

 控室の灯は消えている。あの看護師はいなかった。

  ちゃんと始末はつけたのか?

 ――他人に任せきりでは落ち着かない。


 懐から鍵束を出す。

 震える手で鍵を探る。老眼で鍵穴が霞む。

 やっとのことで扉を開けると、汗と垢の混じった臭気が押し寄せた。


 紋田人志がいた。

 酸素マスクが曇り、モニターが小さく点滅している。

 顔は死人のようだったが、胸の下がわずかに上下していた。


「畜生……まだ、生きてるのか」

 喉が鳴った。

 数字が小刻みに震える。

 完全には止まっていない。脈は、まだある。

 ――これではだめだ。


 萩枝はそっとマスクを外した。

 音を立てないように息を止める。

 紋田の唇が一瞬動いた。

「……A……G……C……T……」


「何を言ってる」

 手がシーツの上で微かに動く。

 ペンを握る癖が抜けない指先だった。

 机の上には三色のフェルトペンと紙。赤、青、緑。

 紙面には、三色の文字がびっしり並んでいた。


 萩枝は、恐怖より先に苛立ちを覚えた。

「気色の悪い……落書きだ」


 両手で紋田の首を掴む。

 わずかに力を込めた途端、指先から命が逃げた。

 瞳孔が開く。

 モニターの線が、一本の音になった。

 ピ――――。


 雷鳴のように響いた。

 全身の血が凍る。

 手を離すと、もう動かない。

「……終わった」


 誰にともなく呟く。

 紙束を見ても、無意味な英字の羅列にしか見えない。

 静かにドアを閉め、安堵の息をついた。

「……誰も知らない。誰にも言わない」


 老刑事は笑った。

 その笑みは、薄いガラスのように脆かった。

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