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第90話 帝都暴走 10

「大臣が一時重体、だと?一体どういうことだ!報道もされておらんぞ」


 午前九時、警視庁特別行動隊の会議室は、早朝から罵声と怒号に満ちていた。


 窓は、外部から見られぬよう、分厚いカーテンで閉ざされ、冷房の風がむなしく書類を散らしていた。


 最早、捜査会議の体を成していない。


 テーブルの上には、昨夜の報告書が無造作に積まれている。


 そこには、ひときわ目立つ黒い文字で――『神楽坂事件』 と記されていた。


 警視庁上層部の顔色は一様に蒼白だった。


「現職大臣が毒を盛られた。犯人は特定できず、警護も突破されている。これが日本の治安維持の現状か!」


 会議に臨む前、幹部たちは、内閣高官から激しい罵倒を受けていた。


 机を叩く拳の音が響く。


 下級捜査員は誰もが視線を落とし、言葉を飲み込んだ。


 彼らが座っている場の空気は、一様に重く、濁っていた。


 沈黙を破ったのは、湧嶋加奈子だった。


「大臣を襲った原因物質は確認済みです。埼京医大の医師である阿羅業博士の報告によるとPhTx3《ファルトキシン》――南米原産の黒毒絞蜘蛛クロドクシボグモが産生する神経毒。抗血清げどくざいは、現在、日本にはない」


 幹部の一人が目を細めた。


「阿羅業……大臣にカチこんで、無理矢理、破傷風トキソイドの特例製造承認を認めさせた外道の医者か。当の阿羅業が下手人ではないのか?」


「彼は、ずっと大学にいて、手を下すのは不可能です」


「……」


「この大臣謀殺未遂の影には煉脈連という科学犯罪組織の存在があると、阿羅業博士は語っています」


 会議室のざわめきが止まった。


 煉脈蓮――公安部にもその名を知る者はいなかったが、


 その響きに漂う禍々しさだけは十分うかがい知ることができた。


「そして、榊原刑事が生前、死の間際に八つ目科学金町工場の写真をメールで私のパソコンに送ってきていました。これです」


 プロジェクターに大写しになった、八つ目科学金町工場の牢獄の現場写真、そこには、鎖のついた足枷、床の血痕、散らばった空の注射筒が写っていた。


「何?榊原の奴、携帯を二個持っていやがったのか……」


 萩枝の貌が一瞬ゆがむ。だが直後、周囲に己の動揺を悟られる前に素知らぬ表情に戻す。


 加奈子は幹部に迫った。


「どうですか?総監、副総監。これでも、八つ目科学は、シロだと?」


 副総監が椅子を軋ませながら身を乗り出した。


「よかろう。八つ目科学関係者への捜査を許可する。ただし、報道には一切漏らすな。現場責任者は特行の湧嶋警部補。同行者に刑事部から萩枝をつける。――裏を取れ。何が出ても、報道には知らぬ顔を通せ」


 湧嶋は短く頷いた。


 萩枝は顎をなでながら、加奈子の方をみた。


「現場に出るのも久しぶりかな……」


 その目は、笑っていなかった。


 会議が終わると同時に、張り詰めた空気が一気に弛緩し、部屋の中の熱気が冷めた。


 この触れれば焼かれる危険を伴う難事件に、捜査関係者の誰もが、深入りして関わりたくないと思っている。


 しくじれば、警察の面目を潰したと、激しい罵倒、いや、罵倒だけならまだよい。


 敵は、未知の猛毒を変幻自在に操る恐ろしい犯罪科学組織、煉脈連。


 狙われれば、刑事といえども殉職の危険と背中合わせ。


 だが、加奈子は引く気はない。


 廊下を歩きながら、彼女は萩枝に伝えた。


「萩枝さん、私の目的地は“あの病院”です。紋田人志――八つ目科学の元社長。彼が入院しているという精神病院。煉脈蓮の手がどこまで伸びているかもしれません。紋田がトカゲのしっぽ斬りよろしく煉脈連から粛清される前に動きましょう」


 萩枝の足が一瞬止まった。


「……あそこに入るのか。 噂じゃ、入ったら二度と出られねえ閉鎖病棟だぞ」


 湧嶋は振り返らなかった。


「紋田はそこで生きている。――彼の記憶から、真実を捜す」


 外の空は鉛のように曇っていた。


 都心のビル群の上に、黒い煙が薄く滲んでいる。


 風は湿り、空気は重い。


 街全体が、何かを覆い隠そうとしているようにも感じた。


 庁舎の前に停まっていた捜査車のボンネットに、

 

 最初の雨が落ちた。


 ポツリ、ポツリと音がして、


 すぐにそれは土砂降りに変わった。


 萩枝が煙草を取り出したが、


 火を点ける前に雨がそれを濡らした。


「――空が、泣き出したのは空か、次に泣くのは誰かな……」


 加奈子の後姿を睨みつけて萩枝が呟いた。


 加奈子が捜査車のドアを開けた。


 ワイパーが動き始めた。


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