第88話 帝都暴走 8
検査技師が血清の入った試験管を蛍光灯の光に透かし、状態を確認していた。
冷蔵庫のモーターが低い音をたてて唸っている、検査室の床を静かに揺さぶる。
阿羅業は腕を組んだまま、モニターを睨んでいた。
脇で綾香が、数値の並んだ紙を広げる。
「LDH、GOT、CK……生化学検査は、全部高値ですね。横紋筋壊死か、心筋障害……、体組織は確実に崩壊を続けている」
阿羅業は応えなかった。
ただ、片手でペンを弄びながら呟いた。
「組織が燃えている……だが、火元が見えない。毒物分析は?」
綾香が首を振る。
「ガスクロマトグラフィーでは検出なし。アルコールも、重金属も陰性」
「……そうか」
阿羅業は立ち上がった。
白衣の裾が静かに揺れる。
「ガスクロだと、奴は逃げる。|HPLC《高速液体クロマトグラフィー》でやれ。ペプチドの反応を見る」
「大型分子ですか? 血清で?」
「いい。――かけろ」
綾香が小さく息を呑み、機器のスイッチを入れた。
液体クロマトグラフのポンプが低く唸り始める。
分析装置のモニターが点滅し、薄い青のラインがゆっくりと走った。
モニターのグラフが、静かに立ち上がる。
時間軸に沿って、いくつかの小さな波が生まれ、消える。
「通常なら、ここまでです」
技師が言いかけた、その瞬間だった。
グラフの端に――異常な波形が現れた。
大きな山が、鋭い針のように突き出していた。
他の波とは異質。
生体の代謝物でも薬物でもない。
明らかに“異物”が存在した。
阿羅業の目が細くなった。
「……見つかったな」
技師が振り向いた。
「阿羅業先生、これは……?」
「大型ペプチド分子の反応だ……」
阿羅業の院内携帯が鳴った。
「片山だ、鍬形の首に貼りついた虫体から、PhTx3の転写産物がリアルタイムPCRで確認出来た。」
PhTx3、片山が、その名を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
綾香が振り返る、
「黒毒絞蜘蛛……ブラジリアン・ワンダリングスパイダーの毒腺から精製されるペプチドね……蜘蛛の毒?蚊の虫体から?」
阿羅業は頷く。
「そうだ。ファルトキシン3、神経毒。普通の器械じゃ見えない。だが、遺伝子検査で原因の毒の断片を掴むことが出来た。奴は生きてる組織を一瞬にして喰い殺す」
モニターの波形がゆっくりと消えていく。
残ったのは、電子の波形の残像。
阿羅業は静かに言った。
「PhTx3……煉脈連の仕業か。奴らは、蚊を媒介して蜘蛛の猛毒で、人間を瞬時に毒殺する殺人技術を手に入れたということだ」
綾香の手から、紙が滑り落ちた。
その音さえ、臨床検査室の異様に大きく聞こえた。
あまりの衝撃的な事態の発覚に。臨床検査室の時間が一瞬止まった。
「どうする?阿羅業」
気を取り直した綾香の問いかけに、阿羅業は毅然と言い放った。
「まだ、間に合う。バイオハザードは、必ず阻止する……、そのためにも鍬形は助ける」
阿羅業は、郭から託された、アンプルを手に執った。
阿羅業の影だけが、長く、鋭く伸びていた。




