第85話 帝都暴走 5
小夜が膳の準備を終えて、座敷を辞した後、
こと平の座敷は、静かに淫靡な熱を孕んでいた。
障子の隙間から差す提灯の光が、弓奴の頬を赤く染める。
鍬形の手が、不意に、弓奴の肩に重くのしかかった。
弓奴の手は小さく震えた。
今夜、弓奴は生理日だったが、
「ご勘弁を」などと―そんな言葉は出ない。
準備は抜かりなかった。
そっと鍬形の手を握り返す。
鍬形は、太い腕を弓奴の首に回し貌を引き寄せる。
弓奴は眼を瞑る。
料理の膳の下。
小夜、いや、李雪蘭が隠すように置いた、小瓶の中で、半寸ほどの大きな蚊、スーパー・タイガー・モスキートが蠢いていた。
小さな虫は逃げ場を探すように瓶の口から這い出し、瓶の外の空気に触れる。
そして、気づかれることなく、鍬形の背後へと廻り込む。
次の一瞬は、スローに時間が引き伸ばされた映画のようだった。
蚊の小さな吸血針が皮膚に刺さった。冷たく鋭い一点、後項部、盆の窪と呼ばれる延髄の部分。微かな違和感が先に立ち、次に焼けるような痛みが走る。
鍬形は半ば驚き、半ば狂乱の呻き声を漏らした。だがその声は、すぐに消えた。
胸の奥が締めつけられるような激痛。
呼吸が、きしむ。片手が心窩に、もう一方が口に伸びた。
顔が引きつり、横隔膜下から激しく突き上げる、吐き気が襲う。
汗が一気に襟元から滴り落ちる。
鍬形の視線が朦朧とし、眼の前の世界がゆがんだ。
箸は手元で震え、口から出そうとした言葉は、最後まで形にならず、ただ短い呻きだけが夜に響いた。
弓奴には、最初鍬形の身体に生じた異変に気が付かなかった。
ただ、渾身の力で己の首を抱きすくめていた鍬形の腕から、力がすうっと抜けていったので、どうしたのだろうと思った。
上目遣いで鍬形の貌をみた。
鍬形の顔面は蒼白、両方の眼の瞳が大きく開いていた。
そして、小刻みに顔が痙攣を始めたのを見て初めて鍬形の異変に気が付いたのだった。
もんどりうって倒れる鍬形の巨体。
鍬形の首に針を突き立てていた蚊が、巨体の下敷きになって潰れた。
「ヒューッ」
「ヒューッ」
気管の拡張・収縮を司る筋肉の運動が緩慢になり、鍬形の呼吸は忽ちに、弱々しくなっていった。
口角から泡を吹いて、ひくっ、ひくっと咽喉仏が上下に律動する。
下顎呼吸という奴だった。
咽喉を抑えて悶絶する鍬形。
「きゃあああッ!」
弓奴は悲鳴を上げ、助けを求め、部屋の障子を突き破り帳場の方をめがけて走り出した。
着物の裾を足袋が踏み激しく転倒する。
痛みを感じる余裕もなく立ち上がった弓奴は、再び絶叫をあげて走り出す。
その後ろ姿を、冷たい笑顔で李雪蘭は眺めていた。
懐から携帯電話を取り出し、葉烈峰に電話をいれた。
「ボス、スーパー・タイガー・モスキートが鍬形大臣を倒しました。実験は大成功です」
満足げな葉烈峰の返事が返ってきた。
「よくやった。これで、M計画の最終ステージの準備が整った。煉脈連の科学者グループに指示をだせ、東京を壊滅できるだけの数のスーパー・タイガー・モスキートを繁殖させろとな」
「了解です、ボス」
舞龍権のM計画、第一ステージは、悪魔を誕生させる工場の略取と破傷風トキソイドの製造妨害。第二ステージは、劇症型熱帯熱マラリアの東京感染爆発。そして、第三ステージの昆虫型殺人兵器、スーパー・タイガー・モスキートによる、小日本人鬼子の大量虐殺、日本経済の破壊、そして中国系反社会組織による日本の支配。
葉烈峰の野望達成が目前に見えた瞬間だった。




