第84話 帝都暴走 4
鍬形が鱧の骨を摘まんだ、その時、
障子が静かに開いた。
香の煙の向こうから、ひとりの娘が膳を抱えて現れた。
白い襟足。
涼やかな目元に、どこか異国の影。
黒髪をきちんと結い上げ、
まだ十代かと思われるあどけなさを残していた。
娘は膝をつき、
ゆっくりと頭を下げた。
「失礼いたします。――新しく入りました中居の小夜と申します」
声は驚くほど柔らかいが、
そのイントネーションの中の微かな異音に、鍬形の耳が反応した。
「……お前、日本人か?」
娘は微笑んだ。
「母が神戸で、父は上海の人でございます」
鍬形は唇の端を上げた。
「そうか。どうりで香のような匂いがする」
女将が後ろから頭を下げた。
「大臣様、こと平も人手が足りませんで、若い子を急ぎ入れました。手はまだ不慣れでございますが……」
「構わん。若い娘の酌だとこれも、酒の味が立つ」
鍬形は盃を差し出し、小夜を見つめた。
眼の奥に、爬虫類さながらの捕食者の光があった。
小夜は静かに酒を注いだ。その指先には微かな傷跡があり、鍬形の視線がそこに止まった。
「ずいぶん細い手だな」
「ええ、大臣。細い手の方が……毒を混ぜやすいと申します」
冗談のように微笑んだ。
鍬形は笑い返した。
「はは、面白い奴だ。座れ、小夜。お前も一杯やれ」
小夜――李雪蘭は、
その言葉を待っていた。
懐の奥、小さな布袋の中に、
硝子の小瓶がひとつ、震えている。
そして、そこに潜む数匹の影――
孵化して間もない個体。
まだ人の血を吸っていない。
李雪蘭は手首の内側に瓶を軽く押し当てた。
虫たちが覚醒する。
タイガー・モスキート?
いや、違っていた。
タイガー・モスキートは、羽斑蚊の虫体を三倍に大型化したものだが、所詮は、蚊。
生活圏に潜む軽業師みたいな虫である。
虫体に、マラリア原虫を孕んでなければ、単なる気色の悪いでかいだけの蚊だが、今、李雪蘭の懐にあるのは、更に遺伝子再改造を施した、スーパー・タイガー・モスキート。
ブラジリアン・ワンダリングスパイダーという、南米に生息する大型のクモがいる。
別名「バナナ・スパイダー」。
語源は単純、バナナの輸出品にまぎれて他国へ運ばれてしまうことがあるからだ。
「世界一危険なクモ」としてギネスブックに載ったこともある、まさに"歩く神経毒"。
その毒の主成分は「PhTx3」などと呼ばれる複数の神経毒タンパク質。
これらは、体内に神経細胞のカルシウムチャンネルやナトリウムチャンネルを経由し、神経伝達物質(特にアセチルコリンとグルタミン酸)を異常に放出させる。
結果、このクモに咬まれると激痛・けいれん・呼吸困難・発汗・心拍の乱れなどが起き、重症例では呼吸麻痺で死亡する。
発作的に神経が暴走するので、症状の発現は数分以内と非常に速い。
スーパー・タイガー・モスキートは、柘植達郎が自慢のCRISPR-Cas9《クリスパー・キャスナイン》のテクニックをフル活用し、虫体に遺伝子編集レベルでの、ノック・イン、ノック・アウトを繰り返して、虫体機能の多重制御を施し、ブラジリアン・ワンダリングスパイダーの放つ神経毒PhTxを、唾液腺から分泌させることが出来る、いわゆる制御不能の昆虫型殺戮兵器。
それが、李雪蘭の懐にある。
鍬形の前に新しい膳が置かれた。
焼き霜造りの鱧。白く淡い身の上に、
緑の柚子皮が散らされている。
「美しいな……」
鍬形は呟いた。
「まるで人間の肉だ」
李雪蘭は首を傾げた。
「ええ、熱を通せば、どんな肉も美味しくなりますわ」
「お前、面白い娘だの」
鍬形は酒を煽り、顔をほころばせた。
その間にも、
李雪蘭の指先は慎重に動いていた。
酒肴の皿に添えられた飾り葉――
その裏に、小瓶の液をわずかに滴らせる。
ほとんど見えない量。
けれど、液には、スーパー・タイガー・モスキートの卵も混じっていた。
彼女は静かに膳を整え、目を伏せたまま言った。
「お料理の香りに、街の騒ぎも忘れますね」
鍬形は笑った。
「街は騒がしいほどいい。下民が吠えてるうちは、まだこの国が生きている証拠だ」
盃を傾け、再び鱧を口に運ぶ。
熱い汁が舌を焼く。
李雪蘭の瞳に、わずかな光が宿った。
――この男の血にも、熱を。
障子の外では、
神楽坂の提灯が揺れていた。
風はなく、それでも提灯の火だけが、細く、長く揺れていた。




