第83話 帝都暴走 3
永田町の周辺は民衆の怒りに震えていた。
議事堂の外では、夜ごと怒号がこだまし、
「総理!出てこい!」
「厚労省を焼き討ちにしちゃれ!」と叫ぶ声が途切れなかった。
だが、厚労相・鍬形崇真の耳には届かない。
閣議を終えた彼は、
書類の束を部下の机に投げ捨てるように置き、
「続きは木っ端《官僚》どもにやらせろ」と一言だけ言った。
そして、こっそりと誰にも見送られぬまま黒塗りの車に乗り込んだ。
行き先は神楽坂。
神楽坂通り、脇の狭い坂道を上がったところにある、魚料理の老舗料亭《こと平》。
暖簾をくぐると、薄暗い照明の中で香の煙が漂っていた。
外の騒乱が嘘のように、静まり返っている。
女将が小腰を折り、
「鍬形様、お待ちしておりました」
と囁いた。
鍬形は靴音も立てず、畳の廊下を進んだ。
個室の障子の向こうでは、
すでに一人の女が座っていた。
芸妓・弓奴。
白粉の下に哀しげな微笑を貼り付けた女。
かつて新橋の花柳界で鳴らした名妓だが、今は鍬形が囲っている愛人の一人となっていた。
「お寒うございますね、ご主人様」
弓奴が小さく頭を下げた。
鍬形は笑った。
「外の奴らの喚きを聞くと、余計に酒がうまい。あいつらは熱に浮かされ、飛んでくる蟲共だ。誰かを憎まねば、生きていけぬ」
膳には、季節外れの鱧料理。
梅肉の香りがかすかに立ちのぼる。
薄く透けた白身に、血のように濃い紅生姜が添えられていた。
箸をとった鍬形は、
柔らかな肉を口に含み、目を細めた。
「よいぞ……この味だ。夏に極上の鱧を喰らう。金も権力も、最後はこの一口に集約される」
弓奴は笑みを絶やさず、盃を差し出した。
「お口に合いまして?」
鍬形は頷き、盃を受け取る。
琥珀色の酒が波紋を立てた。
「合うな。死にゆくものが後を絶たぬ時ほど、生の味は濃く旨くなる」
その言葉に、弓奴の手がわずかに震えた。
障子の外から、遠くの騒音が微かに聞こえた。
怒りの群衆が官邸を取り囲み、サイレンが鳴っている。
だが、ここではその音すら香の煙に溶けていた。
鍬形は酒を口に含みながら言った。
「総理、瘤羅華江も、都知事、佐伯由良子も、難題を押し切ろうと、医療現場に無理強いして、駒を使い果たした。だが、私だけは生き残る。政治の難題は慢性病と同じだ――治すのではなく、だましだまし、己と共存することだ」
弓奴は静かに盃を置いた。
「……ご主人様はお強いお方でございますね」
鍬形は笑った。
「強いのではない。鈍い、のだ。痛みにも鈍ければ生き延びる。あいつらのようになまくらな"正義"など持たぬことだ」
そのとき、外の夜が赤く染まった。
遠くで爆発音。
窓の格子越しに、炎の光がかすかに映る。
弓奴の顔が白く照らされた。
「……また、遠くで燃えてますね」
彼女の声はかすれていた。
鍬形は何も言わず、箸で鱧をひと切れ摘んだ。
熱々の身から湯気が立ちのぼり、
その中で彼は歪んだ笑みを見せた。
「――熱いな。熱い、熱い。部屋は涼しいが、外は、もう、この鱧鍋みたいだ」
民衆の怒号は、遠雷のように響く。
だが、この密室には届かない。
金と、馳走の香と、愛人の芳香が、そのすべてを覆い隠していた。
弓奴は、盃の底を見つめながら思った。
――この男は、燃え盛る焔の中でも涼しい顔で鱧を食うのだろう。
障子の外で、夜の風が微かに震えた。その風は、焼けた都心の悪臭を孕んでいたが、部屋の中には通らない。




