第82話 帝都暴走 2
歩道橋の鉄骨が焼け、手すりに触れた者が、断末魔の呻き声を上げる。
アスファルトの上では、熱気で空気が屈折し、
車の影がゆらりと生き物のように蠢いていた。
その異様な暑気の中で、人々の精神はゆっくりと溶けていった。
怒りでも憎しみでもない、心の奥深くから湧き上がる憤怒。
誰もが何かを責めたいのに、
責める相手の顔が見えない。
ワイドショーでも病んだ帝都の状況が画面に映しだされる。
『政府と都の対応の遅れに市民の不満が高まっています』
憤懣やるかたないといった表情の女のアナウンサーの声が、冷たく響く。
群衆の心のどこかで理性が砕けた。
路傍の看板が宙を舞い、交番から飛び出した警官の頭を襲った。
彼の吹いた笛の音は悲鳴にかき消された。
誰かが叫んだ。
「総理を出せ!」
「都知事を引きずり出せ!」
声が重なり、うねりとなって街を呑み込む。
人の波が一斉に動いた。
汗と埃と排気が混じり合い、視界が霞む。
国会議事堂の周辺では、
防護服に身を包んだ機動隊が盾を並べていた。
盾の表面で光が反射し、群衆の顔が歪んで映る。
その歪みが、まるで“侵略者”の顔のように見えた。
誰かが火を投げた。
炎が上がり、空気が唸った。
ガソリンの焦げた臭いが鼻を突き、
火の粉が群衆の髪を焼いた。
怒号の波が爆発する。
人々は泣き叫びながら前へ出た。
押し合い、転び、踏まれ、誰が敵かも分からない。
「大臣を出せ!」
「殺される前に、殺せ!」
その言葉が空を裂く。
遠くで、ビルの屋上から白煙が上がった。
サイレンが鳴り、放水車が動き出す。
炎に水が降り注ぎ、
蒸気が立ちのぼる――まるで都市全体が煮えた地獄の窯のようだった。
機動隊の警棒が閃き、暴徒を打ち倒す。
その隊員を暴徒が後ろから殴りかかった。
血と汗と泥がアスファルトに混じる。
空気が、焦げた鉄と血の臭いで満たされた。
太陽はなおも空に居座り、そのぎらつく光が、群衆の怒りをさらに炙り出した。
東京は、もう都市ではなかった。
それは巨大な発熱体だった。
人間そのものが、東京の体内の悪性病原微生物となった。
その中心で、葉烈峰は、静かに笑った。
人間が壊れる音に、拍手をしながら。
金という血液が、経済という血流が、止まった瞬間に、東京の中の人間という細胞が狂い出した。
その夜、午後七時。
熱帯夜の東京は、まだ暑かった。
昼の熱気がビルの壁に閉じ込められ、
夜風の代わりに、熱い空気が吹いていた。
街は、日暮れと共に沈黙しているように見える。
だが、その沈黙の奥で、人間の暴力的な感情が突然、再破裂した。
最初に割れたのは、銀座のデパートのショーウィンドーだった。
硬い音が夜の帷を裂き、硝子の散弾が歩道に容赦なく降り注ぐ。
マネキンが倒れ、首が転がった。その頭を踏み越え、男が一人、店内に飛び込んだ。
次の瞬間、何人かの人の波が後に続いた。
警備員が叫んだが、人波は彼を踏みつぶして、店内になだれこむ。
飢えと怒りの感情が、どちらが先かも分からぬまま、群衆の手を動かしていた。
オート・クチュールの服が引き裂かれ、宝石のショーケースが叩き割られた。
高価なブランドバッグが踏みつけられ、
通りにはガラスと革製品が散乱した。
遠くでサイレンが鳴った。
だが、音だけだった。
パトカーは来ない。
途中の交通渋滞で足止めをくらっているのか、警察は、もう機能していなかった。
暗い街の中で、火の手があがった。
誰かが投げた火焔瓶が燃え、
破れたスーツに火が移る。
男が叫び、転げ回る。
その炎を見て、笑う声があった。
「金が死んだ! 日本も死んだ!」
誰かが叫び、
その声が、どこからともなく拍手のように響いた。
渋谷、新宿、上野、池袋。
街という街が崩れていく。
ATMが破壊され、札束が宙を舞う。
それを掴もうと伸びた手がぶつかり合い、
爪が皮膚を裂いた。
焦げた肉と汗と血の臭気が、
夜の東京の空気を満たしていた。
ビルの屋上で、誰かが映像を撮っていた。
ファインダーに映るのは、日本社会の死に様だった。
街灯がひとつ、またひとつ消える。
電柱は暴徒によって引き倒されて、辺りは停電となった。
残った灯は、放火されて燃え上がるコンビニの火だけ。
その赤い光が、
群衆の貌を照らす。
泣きながら笑う者、
笑いながら泣く者。
人間が、何か別のものに変わる夜だった。
表参道の交差点で、母親が子を抱えて立ち尽くしていた。
子供は泣かない。泣き疲れて、眠っている。
母親の周りで、ブティックのショーウィンドーが割れ砕けた。
もう彼女は振り返らなかった。
ただただ子供を抱いて蹲る。
闇が街を飲み込んでいく。
その闇の中に、日本人の心と体が呑み込まれていく。
阿羅業は、その夜の東京を病院の屋上から見下ろしていた。
風が吹かない東京、あちこちで火柱が立ち上る。
「……病の熱が、東京を焼いてやがる」
彼の声は、夜の底に吸い込まれていった。




