第81話 帝都暴走 1
午後一時、日本橋兜町は無風。
湿気を含んだ空気が、べたべたと、肌にまとわりついていた。
各証券会社の株価指数の大型掲示板が、壊れたデジタル時計のように点滅していた。
TOPIX -912.45 Nikkei -4875.22。
下げを表す緑の数字が、秒ごとに深い闇へと沈んでいく。
群衆が押し合い、掲示板を見上げる。
汗が顎から滴って舗道に落ちる。
誰もが口を開き、呻き声を出している。
だが、その言葉は、もう言語の体を成していなかった。
呻き、叫び、罵声、祈り。
それらが混ざり合い、兜町全体が一つの巨大な喉になり、死の呻き声を唱和する。
年老いた投資家が、手にした新聞を握り潰す。その紙面の見出しは、
「東京市場、戦後最大の暴落」と黒々と印刷されていた。
「止まれ……頼む、下げ止まってくれ……!」
誰かが掲示板に向かって叫んだ。
その声も虚空に虚しく消える。
沈む数字は止まらない。
マイナスの列が、ひとつ、またひとつ増えていく。
若い男が、スマートフォンを落とした。
画面に表示された口座残高は、マイナス160万円。
街の片隅で、紙屑と化した証券を破る音がした。
破られた紙が風に舞う。
路上を白く覆った。
それは、まるで紙の雪――いや、投資家の夢が燃え尽きた灰の残滓だった。
証券会社の内部では、職員たちがモニターの前で硬直していた。
売りボタンも、買いボタンも、今はただの飾りにすぎない。
数字だけが、静かに落ち続けていた。
外の群衆が動いた。
「日銀は、政府は何をしている!」
「このままじゃ死ぬ!」
怒号がビル街に響く。
誰かが証券会社の窓ガラスを拳で叩いた。
ガラスが割れ、破片が地面に降り注ぐ。
路上に血が落ちた。
だが誰も振り返らない。
「ブラック・オーガスト」――。
誰かが呟いた。
その言葉が、瞬く間に群衆の間を走った。
それはまるで、疫病の名のようだった。
灼熱の太陽が照りつける。
だが、光はどこか冷たかった。
遠くで雷が鳴った。
空気が震え、街が一瞬静まる。
その静寂の中、東京という名の巨大な生命体が、静かに死に始めていた。
*
銀座四丁目のSEIKO HOUSE GINZA、和光の時計は午後三時を指していた。
その日の、銀座も兜町同様、稽留熱に冒されていた。
太陽は黄ばんだ焼鉄のように空を焦がし、空気そのものが、熱せられた油膜のように揺らいでいた。
アスファルトは、車から溶け落ちたゴムの臭いを放射し、一歩ごとに靴底にねっとりと吸いついてゆく。
ビルの壁面からは、熱風と排気の混じった建物の吐息が吐き出され、
歩行者の鼻腔の奥を熱した。
風は吹かず、都市は巨大な密閉炉のようであった。
信号を待つ人々の顔は、汗で光るというより、粘つく皮脂で汚されていた。
大群衆の呼気が街を覆い、空は最早、腐った黄土色に濁っている。
腐ったコンビニ弁当の臭いと、
排水溝から上がるアンモニアの異臭が混ざり合い、
そいつが肺を刺すたび、喉の奥に吐き気がこみ上げる。
路上に堕ちたカラスの群が、熱で半ば干からびたまま動かない。
遠くで救急車のサイレンが響くが、その音すら熱気に歪んで、聞こえてくる。
東京は今日も、息をしていた。
だが、その息は、断末魔の息に等しかった。




