第80話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 33
丸の内、八つ目科学本社社長室。
泡渕専務がクーデターを起こした後の数週間、紋田人志は、ずっと社長室での軟禁状態にあった。
無論、葉烈峰の指示によるものだ。
分厚いカーテンが閉じられ、外の光は一片も入らない。
テーブルの上に、冷めきったコーヒーの臭いと、沈黙だけが漂っていた。
テーブルを隔てて対面に座るのは、専務、泡渕。
その隣に、黒いジャケットの男――
中国マフィア《はんグレ》恵比寿舞龍権の最高幹部、葉烈峰がいた。
葉の口元に浮かぶ笑みは、瀕死の獲物の息を確かめる獣の笑みだった。
「――紋田社長、残念だが、あんたの時代は終わった」
低く、ねっとりした声が室内を這った。
紋田は顔を上げた。
「お前ら、ふざけやがって。私がこの会社を作ったんだぞ」
泡渕が、細い指でメモ帳を叩いた。
「そう、あなたが作った。だが、百億の損害も作った。いま必要なのは"清算"だ。あなたの名前が、われわれの資金の"要"として最も美しい形で使える」
紋田が意味を理解するまでに、数秒かかった。
その間に、葉烈峰の手が静かに上がった。
背後の男たちが、音もなく俊敏に動いた。
黒い手袋が紋田の腕を押さえ、薬液が注射される。
「……や、やめろ……!」
叫ぶ間もなく、視界が白く滲んだ。
意識が溶ける。
最後に見たのは、泡渕の冷ややかな笑みだった。
「あなたの名義で、新しい口座を開く。われわれの事業は続く、社長――安心して眠っていていい」
紋田は深い眠りに落ちた。
*
目を覚ました場所は、窓のない白い壁の部屋。
蛍光灯が一つ、青白く唸っていた。
腕の静脈に注射針が刺さり、身体は革の拘束帯でベッドに固定されていた。
口が乾いていたが、声を出そうとしても、喉の奥から空気しか出なかった。
ドアが開き、白衣の男が入ってきた。マスクの下の笑みが、悪意に満ちて、歪んでいた。
「おはようございます、社長。あなたは脳血管障害で倒れました。医療観察のため、しばらくこちらで安静にしていただく」
男は名札を裏返しており、名前は見えなかった。
紋田は息を荒げた。
「……私は病気じゃないぞ……!」
男は、無言で注射器を握った。
透明な液体が、シリンジの中で揺れた。
ラベルには英語の小さな文字。
"RNA Inhibitor / Neural Control Sample-07"
薬液が体内に入り込む、冷感が全身を走った。
男が低く囁いた。
「あなたの脳細胞は、もう必要ない。我々が『後見人』になる」
紋田の視界が揺れた。
天井が波打ち、光が崩れていく。
耳の奥で、自分の名前が遠ざかる。
――紋田。モンダ。モ……。
思考が消えていく。
ただ、どこかで微かな電流のような声が響いていた。
(書け。残せ。ACGT……ACGT……)
手首が、かすかに動いた。
震える指で、空間に一見、意味のないような核酸の塩基をしめす文字を並べる。
ACGTACGT
ただ、それだけ。
だが、それが紋田の脳細胞の唯一の抵抗だった。
*
数週間後、業界紙である、日本薬事新聞の報道は短く伝えた。
「八つ目科学の紋田人志元社長、急性劇症型認知症のため入院加療中」と。
泡渕専務は、その記事を見ながら微笑んだ。
「いい隠れ蓑だ。これで"資金の問題"も、"過去の罪"も、片づいた」
その頃、スイスの銀行で、一つの口座が開かれていた。
名義は「Hitoshi Monda」。
取引額――預金五億二千万ドル。
電子金融の波の中で、紋田という名前だけが独り歩きを始めていく。
*
白い部屋の中、その男はずっと、紙に落書きや文字を書き綴っていた。
必ず、大きな南京錠で施錠をされたドアの絵をかき、ドアにAGCTの文字を、赤、緑、青、色を変えて、黙々と描き続ける。
意味を失った脳の中で、まだ理性の残滓が生きていた。
「……ACGT……ACGT……倉庫の中に……」
ペンが紙を擦る音が、男の唯一の生きている証だった。
やがて、手が止まり、
紙片が床に落ちた。
その上に落ちた蛍光灯の光が、
まるで僅かに残った中枢神経機能の残光のように揺れていた。




