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第79話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 32

「達郎に逢いにこられたんですね」


 加奈子は頷いた。


「ええ。……彼の様子を見たかったんです」


 綾香は、淡く微笑んだ。


 それは諦観の末の笑みであった。


「達郎は、まだ帰ってこない。……けれど、機械がちゃんと動いています。

 それだけで、いまは十分なんです」


 加奈子は言葉を失った。


 彼女の声の奥に、深い痛みがあった。


 それは、加奈子同様、同じ"喪失"を知る者の声だった。


 綾香は壁に手をつき、ゆっくりと視線を落とした。


「煉脈連――刑事さんは、あの組織を追っているんですね」


「はい。でも、まだ掴めていません。奴らは姿を持たない。影と同じです。

 けれど、ある目的をもって、確かに罪のない人々の"命"を喰っている」


 加奈子の声がかすれた。


 綾香は小さく頷いた。

「……あの人も、そうでした。職を失い、道を迷っている間に、煉脈連に捕捉され、神に抗う行為を行って天罰が下った。新種の命を創ることが、どれほど罪深いかを知らなかった。私のお腹の中の命が奪われたことも、達郎に下された天罰の一つだと思っています。でも、達郎を、憎むよりも怖い。"あの人がここまでやってしまった"ということが……」


 言葉が途切れ、廊下の静けさに、雨の音だけが混ざった。


 加奈子はゆっくりと近づき、


 綾香の肩に手を置いた。


「私も、あの組織に、かけがえのないものを奪われた人間です。部下の刑事の命が、燃え尽きました。でも、あなたはまだ終わっていません。同じものは無理でも、あなたの失ったものが、取り返せるかもしれない」


 綾香の瞳が潤んだ。


 しかし、涙は落ちなかった。


 涙はすでに、涸れはてていた。


「刑事さん……これから?」


 加奈子は小さく息を吐いた。

「誰かがこの街の熱を冷まさなきゃいけない。だから、止められない。そのために、法も正義も越える覚悟で来ました」


 綾香はその顔を見つめた。


 そして、静かに微笑んだ。


「……あなたは、強い人ですね。でも、どうか死なないでください。

 死んだ人の想いは、生きている人にしか届かない」


 加奈子は頷いた。


 それが約束のように響いた。


 二人の間に、言葉のいらない沈黙が流れた。


 外の雨音が少し強くなった。


 ICUの中では、機械の音が一定のリズムで続いている。


 それは、まだ絶えぬ命の証。


 加奈子はその音に耳を澄ませた。


「生きている――なら、まだ間に合う。あなたたちは、きっとやり直せる 」


 綾香の目に、わずかな光が戻った。


 外の雨がやみ、東の空に、白い光が滲み始めた。


 それは、新しい戦いの幕開けだった。


 加奈子はゆっくりと背を向けた。


 扉の前で一度だけ振り返る。


 達郎の胸が、呼吸器の動きに連動して、ゆっくり上下していた。


 扉を閉めるときには、外の窓に朝の光が射し始めていた。


 長い夜が終わった。


 だが、戦いの日々はまだ終わらない。


 加奈子は、拳を握りしめた。


「――もう、誰も死なせない」


 その言葉が、静かな廊下に響いた。

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