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第78話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 31

 加奈子は、エレベーターの扉が開くと、

 深く息を吸い込んだ。


 胸の奥に、重いものが澱んで沈んでいる。


 息を吐ききって体の外へ吐き出したかったからだ。


 集中治療部、重症病室。


 加奈子は扉の前に立った。


 廊下には夜勤の看護師の靴音だけが響いていた。


 別れ際の、阿羅業の言葉が、脳裏によみがえる


「柘植達郎は、まだ重症病室からはでられねえ、話は聞けないだろうが、顔をのぞくぐらいなら許可する、今の状態をみて、彼にこれ以上の罰を与えることが真に正しいことかあんたが決めろ」


 柘植達郎。


 ベッドの上にいるはずのその男の姿を、彼女は一度も見たことはない。


 阿羅業からは「意識不明」とだけ聴かされている。


 それ以上は、彼も口にしなかった。


 扉の向こうから、人工呼吸器の音が微かに聞こえてきた。


 自律的な生命の活動ではなく、


 機械が代わりに、達郎を生かしている音。


 加奈子は、その場に立ち尽くしていた。


 指先が震え、膝がわずかに力を失う。


 ここまで来たのに、なぜか、扉一枚が越えられない。


 ――榊原の死。

 ――八つ目科学の爆発。

 ――煉脈連という名の悪夢。


 神田川の死体遺棄事件をきっかけに、残酷な、惨たらしい出来事にまみえてきた。


 そして、上層部からのプレッシャー……。


 だが、事件の解明、これからの惨劇の阻止を目論むならば、達郎との闘いから逃げるわけにはいかなかった。


 すべての線の先に、この男がいる。


 柘植達郎。


 ベッドの上、全身を包帯と固定具に縛られ、人工呼吸器のチューブが管を挿管された喉に繋がっていた。


 機械が一定のリズムで息を吐き出す。


 生命を維持していることを示す、ピ――、ピ――、という小さな電子音が規則正しく聞こえてくる。


 達郎の顔は、もはや人の面影を留めていなかった。


 皮膚は火傷の痕で覆われ、 頬が突き出し、唇は白く乾いていた。


 それでも――生きていた。


 加奈子は足を踏み入れ、


 ベッドの脇に立った。


 視線の先で、達郎のまぶたが微かに震えた。


 意識は戻らない。


 だが、その微かな動きに、加奈子は一瞬、心臓を掴まれたような気がした。


 ――この男が、地獄の扉を開いた男。


 南陽熱帯医学研究所、即ち、煉脈連の奸計に落ちたとはいえ、結果的に、人間の知を超えて、命を弄び、神に挑んだ科学者。


 だが、今その男の正体は、機械に繋がれた、燃え滓の肉体にすぎなかった。


 加奈子は、ベッドの縁に手を置いた。


 指の下から、わずかに温もりが伝わる。


「……あなたの作った“悪魔”が、この街を焼いているのよ。

 でも、ここで、あなた一人を責めても、意味はない。

 あなたの背後で操る――煉脈連の犯罪を、私はくい止める」


 声は震えていなかった。


 ただ、静かに燃えていた。


 人工呼吸器の音が、まるで返事のように、定まったリズムで鳴り続ける。


 加奈子は、視線をその胸元に落とした。


 包帯の隙間から覗く皮膚の下で、


 かすかな鼓動が、響いていた。


 彼が目を覚ますとき、その先に待つのは裁きか、贖いか。


 ――それを決めるのは、彼の良心にゆだねようと思った。


「刑事さん……」


 静かな声。


 振り返ると、白衣の女が立っていた。


 広瀬綾香。


 顔色は青く、目の下には深い影。


 それでも、その瞳は凛としていた。



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