第77話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 30
神田佐倉町。
かつて薬問屋の街として栄えたその一角も、
今ではシャッターの錆と古びた看板だけが残っていた。
夜霧が、石畳の上を這うように流れている。
街灯の灯は濁り、どこかで野良猫が壊れた瓶を蹴るような音がした。
阿羅業は、白衣の上に黒いコートを羽織り、
古びた暖簾を押して志那虎薬舗に入った。
薬舗の中はいつものように薄暗かった。
棚には瓶や薬草の束が雑然と並び、
鼻を刺すような樟脳と薬品の匂いが充満している。
カウンターの奥に、彼がいた。
郭英志。
深く刻まれた貌の皺の中で、眼だけがわずかに笑った。
「……やっぱり来ましたか。あんたみたいな医者が、俺の場所を忘れるわけがない」
阿羅業は黙って近づき、
薬棚の前に立った。
棚の一番下、
古い木箱の蓋が少しだけ開いており、
中には瓶詰めの試薬と、古ぼけた注射器。
「俺が貌を変えた、あんたの娘さん――手術の前に、ロンドンに居て若井美弥子と名乗っていたよな……。そして、今は六本木の生物学研究所で働いている。名前は、李雪蘭、違うか。そして彼女の両手はあの世に送った人間の血にまみれている」
郭の顔に一瞬だけ陰が走った。
だが、すぐに笑みが戻る。
「さすがだね、"神醫"さん。患者の死臭を嗅ぎ分けるのも得意そうだが、真実の臭いのほうが嗅ぎ分けやすいか」
阿羅業は、わずかに眉をひそめた。
「答えてくれ、郭。お前は俺たちの敵なのか、味方なのか」
その声は低く、相手の精神まで切り裂くような鋭さがあった。
郭は椅子の背にもたれ、古びた薬壺の蓋を開けて煙草を取り出した。
火を点け、紫煙を吐く。
「敵か味方か……、そんな線引きで世の中を見られるのは、あんたがまだ人間だからさ。俺らは、とうにそんな境界線は跨いだところで生きてる。けれど――少なくとも俺は、あんたの敵じゃない」
阿羅業の目がわずかに細くなった。
郭は続けた。
「もし俺があんたの敵なら、あんたが以前ここに来たとき、そう、アルヘンティナ・ジゼルをプレゼントした時に、ヒドロキシクロロキンの錠剤をあんたに見せびらかしたりしなかったろう。あれで、煉脈連と葉烈峰の企み、M計画の第二ステージの概要に気が付いたはずだ。これまでのトキソイドのあんたたちへの横流しだって、命がけでやってるんだ。敵に、命懸けの危険を冒して薬を渡すほど、俺はお人よしではない」
その声には、ゆるぎなくどこか誇りにも似た響きがあった。
阿羅業は黙って立ち尽くしていた。
郭の顔には、阿羅業と同じ色があった。
人を救うために、法を越えた者の色だ。
「……娘のことは、もう諦めている」
郭の声がかすれた。
「家内が殺され、娘が煉脈連の奴らに連れて行かれたとき、俺は完全に"父親"でいられる資格を失ってた。煉脈連の恐ろしさは、あんたも知ってるだろう?あいつらに逆らえば、生きたまま臓器を一つずつ抜かれる。いいか?一つずつだ。俺たちは、奴らの機嫌を伺って生きるしかないんだよ」
阿羅業は静かに煙を吐いた。
その煙が、二人の間で淡く絡まり、
まるで罪と贖罪の境界を描くように揺れた。
「郭。……お前は、よく生きてこられたな」
郭は苦く笑った。
「それはお互い様さ。言い換えれば、二人とも死に損なってるだけさ。だが、生きてるうちは、せめて娘の魂ぐらいは地獄に落としたくない。もし、あんたが娘を見つけて、罪を償わせることになったら、頼む。銃じゃなくメスで娘を償わせてやってくれ」
阿羅業は短く頷いた。その目に、かすかな光が宿った。
「……わかった。医者のやり方でやる、だが、俺はあんたに免じて彼女には手はだしたりはしない、安心しろ、あんたには世話になってる」
その言葉を聞いて、郭は小さく笑い、目を閉じた。
静寂の中で、壊れかけた時計の針の音だけが、かすかに響いていた。
阿羅業は背を向けた。
白衣の裾が風に揺れ、薬舗の扉が軋んだ。
「――郭、あんたは生きろ、煉脈連と葉烈峰に歯向かって死ぬ必要はない。俺もまだ死ぬわけにはいかん。ただ、お互い救える命は救ってやろうぜ」
そう言い残し、阿羅業は夜霧の中へ消えた。
郭はその背中を見送りながら、煙草を灰皿に押し付けた。
火の残りが、ゆっくりと消えていった。
それは、過去の罪を焼き尽くすように見えた。




