第76話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 29
阿羅業から指定された会見場所は、埼京医大の地下診察室。
夜明けの光は、窓のないその部屋には届かない。
蛍光灯の白が、無影灯のように阿羅業の横顔を照らしていた。
加奈子は椅子に腰を下ろし、封筒を机に置いた。
阿羅業は、しばらく無言だった。
煙草を取り出し、火を点ける。
紫煙が、光の中で揺れた。
「刑事さん。……俺が"医者"になったのは、人を救おうとか思ってたからではない。もっと、汚れた理由だ」
その声は、低く、鉄のように硬かった。
「俺は、餓鬼の頃に"売られた"。怠惰な《ネグレクト》性質が芯から染み付いた貧乏な両親が、自分たちの生活費ほしさに俺を煉脈連の連中に売り渡したんだ。移植手術用の臓器ドナーとしてな」
加奈子は息を呑んだ。
だが、阿羅業の眼は、静かだった。
怒りも涙もなかった。
ただ、乾いた過去を語るように続けた。
「だが、あの連中の中に――一人だけ、妙な医者がいた。王鎮魂といった。
外科の天才で、死体を見れば、どこがどのように壊れているかを、まるで楽譜でも読むように言い当てる男だった。
俺の体を切る前に、そいつが言った。
『こいつは臓器より、手を使わせた方がいい。』
それからだ――俺は、手術台の"横"に立たされた。
十歳の俺に、手術用剪刀の使い方を叩き込み、
肉を切る手の震えを叱りつけた。
血の匂いが飯の匂いに代わるまで、そこを出られなかった」
部屋の中の空気が冷えていった。
阿羅業の声は、感情を削ぎ落とした分だけ重かった。
「やがて、王鎮魂が死に、俺は、戦場軍医という"製品"として娑婆に解放された。幾多の戦闘地域を渡り歩いて生き残ったこの身体には、煉脈連の知識と技術が残っている。俺が"神醫"なんて呼ばれるのは、要するに、煉脈連の亡霊を引き継いでるってことだ」
阿羅業の身体が常に死と血の臭いを漂わせている理由がわかったような気がした。
しばし、沈黙の後、加奈子は封筒を開けた。
その中には、三枚の写真。
若井美弥子――と呼ばれていた女。
「この女のことを教えてください。煉脈連にいたあなたは、知っているのではないのですか」
加奈子は、写真の封筒を押し出した。
白黒の写真が、机の上に滑った。
「……この女を、見てください。彼女は、若井美弥子の名を名乗り、ロンドン王立研究所から、新種の蚊のcDNAを盗み去り、日本へ逃亡した凶悪犯。私は煉脈連の一員ではないかと考えています」
阿羅業は、ゆっくりと指先で写真をつまんだ。
光の下で、女の顔が白く浮かび上がる。
次の瞬間、
阿羅業の手が微かに震えた。
「……この顔……まさか……」
加奈子が身を乗り出した。
「ご存じなんですね?」
阿羅業の目が、写真に釘付けになったまま、
遠い記憶を掘り起こすように細く揺れた。
「若井美弥子……いや、違う。こいつは――郭の娘だ。 支那虎薬舗の郭英志の……娘だ」
声が低く漏れた。
加奈子の胸が高鳴る。
「郭……、あなた達が薬品を調達していた、神田佐倉町の裏薬舗の?」
「ああ。郭は戦時中から続く裏の薬屋で、闇のブローカーを通じて薬物を流している。摘出した臓器を長持ちさせる保存液や、臓器再生剤を作っていた。俺は、アンデスでのみ作られる、魔法の手術糸・アルヘンティナ・ジゼルを餌に、この娘の貌を変える手術を施術したばかりだった……」
阿羅業の眉間に皺が寄る。
写真を見つめる眼差しに、かすかな哀しみが滲んだ。
「郭は、自分の娘がマフィアに追われているといった。ざまあないぜ、娘を追っていたのはマフィアじゃなくてインターポールだったとはな……」
その呟きに、加奈子が声を失った。
沈黙が落ちる。
蛍光灯の唸りだけが、室内を満たしていた。
阿羅業はゆっくり立ち上がった。
白衣の裾が、静かに揺れる。
「刑事さん。この話は、ここまでだ」
「先生、どこへ――」
「少し、確かめることがある」
阿羅業は写真を一枚、ポケットに差し込んだ。
その眼に、かつて見たことのない光が宿っていた。
「志那虎薬舗。郭に逢ってくる」
「待ってください。私も――」
「来ないでくれ、安心しろ。奴らに警察が追っているなどと耳打ちはしない。わかったことは全部あんたに伝える……」
その言葉を残し、阿羅業はドアを開けた。
廊下の冷気が流れ込み、白衣の背中がゆっくりと闇に溶けていった。
加奈子は、ただその背を見送った。
言葉を失ったまま、
写真の中、女の微笑みだけが、机の上で冷たく光っていた。




