第72話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 25
亀有署の刑事が、煙に咳き込みながら近づいてきた。
「……あんたが特行の涌嶋警部補さん?来ない方がよかったかもな……」
その顔は煤で黒く汚れていた。
目の下の隈が、徹夜の作業を物語っていた。
「……犠牲者は?」
加奈子の声を聞いて、刑事が一瞬、視線を逸らした。
「……倉庫の奥から一人分の死体が、出た。……いや、"一部"だけだがな」
その言葉が、加奈子の胸を刺した。
鼓動が止まる。
周囲の音が、急に遠ざかった。
「一部……?」
唇が乾き、声にならなかった。
刑事は無言で頷く。
「遺留品の中に、燃え残った警察手帳があった。……榊原刑事のものだった」
加奈子は、足元の灰を見つめた。
指先が震えた。
まるで自分の中で、何かがひとつ崩れ落ちるようだった。
熱い雫が頬を伝った。
雨か涙か、もう区別がつかなかった。
刑事が、帽子を脱いで言った。
「……気の毒だったね」
加奈子は、首を横に振った。
声は出なかった。
ただ、唇がかすかに動いた。
「……まだ、認めない。姿を見るまでは、認められない」
灰の中にしゃがみ込み、
焦げた鉄片に指を触れた。
指先に、熱が残っていた。
榊原の体温が、まだそこにあるように思えた。
東の空が白んでいく。
灰色の煙の向こうに、夜が消えていく。
その光の中で、加奈子はゆっくり立ち上がった。
涙を拭かず、唇を固く結ぶ。
「……誰が、やったのか。絶対に、見つけ出す」
声は低く、しかし確かだった。
"怒り"の声だった。
風が吹き、灰が舞った。
灰を、一つまみ、
加奈子は、それを両手で包み込んだ。
熱が、まだ少し残っていた。
加奈子は、掌の灰を見つめたまま動かなかった。
それは、まるで何かを護るような仕草だった。
ついさっきまで、事件をともに追っていた部下の誇りを護るように。
風が吹くたび、指の隙間から灰がこぼれ落ち、黒い粉が頬をかすめる。
背後では、残り火を消す消防のホースが唸りを上げていた。
焼けた鉄骨がまだ熱を持ち、煙が立ち昇る。
焼けたゴムの匂いと、鉄の臭気。
昨夜の災厄の残り香が、まだそこに漂っていた。
刑事が言葉を探すように、唇を開いた。
「――涌嶋警部補、もう……ここは我々で」
だが、その声を遮るように、加奈子はゆっくりと立ち上がった。
「違うの……ここから始まるのよ」
彼女の声は低く、だが揺るぎがなかった。
灰にまみれた頬に、微かな光が差す。夜明けの光だった。
彼女は焦げ跡の中を歩き出した。歩くたびに灰を踏みしめ、ざらりと音を立てる。
榊原が倒れていたであろうあたりに膝をつくと、遺留品の手帳を拾い上げた。
焦げて名も読めないが、背革の感触だけが懐かしかった。
「……あんた、いつも無茶ばかりして」
呟きながら、手帳を胸に抱いた。
煙の向こうで、陽が昇りはじめる。
街のざわめきが少しずつ戻ってくる。
それでもこの現場の陰鬱な空気だけは、時間の経過を拒むように沈黙していた。
加奈子は顔を上げた。
炎の跡が刻まれた鉄骨が、まるで巨大な獣の骨格のように見えた。
「榊原……あんたを殺した奴は、必ず逮捕するから」
その声は静かだった。だが、その静けさの中には、溶けきらない激しい怒りがあった。
刑事たちはもう誰も加奈子に言葉をかけなかった。
朝の光が、灰を白く照らす。
加奈子はその光の中で、背を向けた。
歩き出すたびに、靴底にこびりついた灰が落ちた。
加奈子の唇が、かすかに動いた。
もう一度青空を見上げた。
「空から見ていてちょうだい。この災厄は絶対、終わらせる」
――風がまた吹いた。
灰が、光の中で舞い上がる。
まるで、榊原がそこにまだ立っているように。




