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第69話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 22

 地下駐車場に残る灯は、LED灯一本だけだった。


 柘植達郎は、白衣を脱ぎ捨てたまま、古い軽四自動車のドアを叩き閉めた。


 内燃機関が悲鳴を上げるように唸り、車体が震えた。


 タンクのガソリンはほとんど空、


 だが、もうどうでもよかった。


 ――北新宿の病院へ。


 そこに、綾香がいる。


 彼女が、失ったもののすべてが。


 外苑東通りから、外堀通りに出ると、雨が上がったばかりで、アスファルトの上に街灯の光が照り返して帯のように伸びていた。


 赤信号を無視して、軽四は疾走した。


 頭の中は、ひとつの声だけが響いていた。


「流産しました」


 ――彼女を守れなかった。


 神を気取って、命を弄んだ罰だ。


 それでも、行って謝らなければ。


 許してもらえなくてもいい。


 ハンドルを握る手が震え、視界が滲んだ。


 涙と汗と血が、区別もつかない。


 その時だった。


 前方、対向車線のヘッドライトが、異様に膨らんだ。


 大型トレーラーが、センターラインを越えて突っ込んできたのだった。


 その瞬間、襲い掛かる対向車のヘッドライトから放射された白光で目が眩んだ。


 正面衝突の激しい衝撃が達郎を襲った。


 車体の潰れる音が、静寂を裂いた。


 軽四の車体は紙のように押し潰され、


 内燃機関の唸りとともに、炎が噴き上がった。


 衝撃の中で、柘植の頭がガラスに叩きつけられる。


 血が視界を染めた。


 熱で気化されたガソリンが肺を満たした。


 遠くで人の叫び声がした。


「車が燃えてる!」「救急車を!」


 柘植の意識は、燃える世界の奥へ沈んでいった。


 視界の端で、誰かの影がゆらりと動いた。


 それは、黒いコートの女――黒衣を纏った李雪蘭のように見えたが、もう、確かめる力は残っていなかった。


 闇がすべてを呑み込み、


 最後に見たのは、破壊の赤。


 *


 救急車のサイレンが、こだましながら疾走する。


 赤い灯が濡れた街に乱反射し、


 風が、焦げた煙を運んでいた。


 無線の声が叫ぶ。


「意識レベル、JCS III-300、呼吸微弱、血圧低下! 埼京医大へ搬送します!」


 ストレッチャーに乗せられた柘植の身体は、


 創口からどす黒い血を滲ませていた。


 急性の硬膜下血種、右腕の粉砕骨折、複数の肋骨複数破断、肺穿孔、肝破裂。


 生きているのが奇跡だった。


 搬送先――埼京医大病院。


 救急入口で待ち構えていた白衣の影が、


 ストレッチャーに駆け寄った。


 阿羅業神醫あらわざ かむいだった。


 徹夜明けの顔に、疲労の影はなかった。


 そればかりか、その眼が鋭く光った。


「誰だ」


 救急隊員が答える。


「交通多発外傷です!三十代、男性。名前は――柘植達郎!」


 阿羅業の足が止まった。


 時間が一瞬、凍った。


 ――柘植。


 広瀬綾香の、あの男。


 喉の奥に、苦いものが込み上げる。


「輸血の準備をして……手術室を開けろ。手の空いている外科医を集めてすぐに切るぞ」


 指示の声が鋼のように響いた。


 ストレッチャーが転がされ、


 手術室の無影灯の下へ吸い込まれていった。


 *


 手術室。


 無数の器械が音を立て、心モニターが波を描く。


 血の匂いと消毒薬の匂いがくぐもり、空気の境界を曖昧にしていた。


 阿羅業は、無言でメスを握った。


 看護師が震えていた。


「先を考えたら、そっちのほうが楽かもしれんが、やはり死なせてやるわけにはいかんぜ」


 阿羅業の手が動いた。


 肋骨を切り、突き刺さっていた肺を解放する。


 血が噴き、吸引器が鳴いた。


 心臓が露わになる。


 その鼓動は弱々しく、指先の力で消えそうだった。


「……生きろよ、まだ死ぬときじゃない」


 阿羅業は呟き、心臓に直接リズムを取り戻すように、掌で圧を加える。


 電子音が、ピッ、と鳴った。


 モニターの波形がかすかに動く。


「……戻った!」


 若い医師の声が上ずる。


 だが阿羅業は表情を変えなかった。


 創口を縫合し、破裂した肝臓に止血材を押し込む。


 その手は、ただただ、命を繋ぐために動く、


 ひとつの神の手の“業”の化身だった。


 数時間の戦いの果てだった、


 阿羅業はようやくメスを置いた。


「ここは終わった、あとを頼む……」


 阿羅業は、マスクを外した。


 頬を伝う汗を、血とともに拭う。


 モニターの音は、規則正しく響いた。


 その律動リズムは、燃え続ける魂の奏でる樂曲のようだった。


 ふと、窓の外に目をやる。


 東の空が、わずかに白み始めていた。


「……神は、やはり人間の敵なのか、禁忌タブーに触れたとはいえ、この男にここまで罰を与える必要もなかろうに……。だが、それならば、俺は力の限り抗うだけだ」


 呟きは誰にも届かなかった。


 ただ、明けの光だけが、


 彼の肩を静かに照らしていた。


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