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第66話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 19

 雨が降っていた。


 若い刑事の影が、濡れた舗道を渡っていく。


 背後から、一台の白いゼロクラウンが近づき、短いクラクションとパッシングビームで、影の動きを止めた。


 影は振り返り、ゼロクラウンの前に立った。


 運転手が、ウインドーを半分に下ろし、影に声をかけた


「おい、榊原。八つ目科学に、カチコミにいくんだろ?乗んな、俺が連れてってやる」


「萩枝さんじゃないすか、いや、ま、ありがたいんですけど、俺は自分の勝手で動いてるんで、迷惑をかけちゃうといけませんから……」


「まあ、気にするな。歩いて葛飾まで行くつもりか?」


「……」


 榊原は思案顔になった。


 萩枝刑事は、俺がこっそり八つ目科学の金町工場を洗いにかかってるのをもう知っているのか……。


 ここで、手伝いの申し入れを断ったりしたらちょっとまずいことになるかもな……。


 そう思い直して、榊原はゼロクラウンの助手席に腰を下ろした。


 ゼロクラウンは、箱崎ランプに向かって走り出した。


 ワイパーが、濁った水滴を左右に叩き落とすたびに、


 フロントガラスの向こうの街灯が滲んだ。


 萩枝は、灰皿の山を睨みつけるようにしてハンドルを握っていた。


 六十歳。


 顔にはしわが刻まれ、白髪が混じった頭を無造作に撫でつけている

 老いというより、使い潰された洗濯機のような疲弊が滲んでいた。


 無能の刑事――そう言われて三十年。


 捜査一課の雑用係、夜食の買い出し、行事の筆耕、証拠、証人の裏取り。


 同僚たちから見れば、いてもいなくても同じ存在。


 まるで、空気。


 いや、空気がなくては人間は生きていけないが、萩枝がいなくても、誰も死なない。


 いうなれば、空気未満の存在。


 だが萩枝は、それで十分だった。


 誰にも注目されない陰こそが、最も安全な"道"だと知っていた。


 その陰で、四十年、彼は裏の顔をしぶとく生きていた。


 闇金、風俗、薬物、マフィア――。


 捜査情報を金に換え、法の網の中で生き延びる寄生虫が萩枝だ。


 裏社会では「ゴミムシ」と呼ばれていた。


 踏まれても潰れず、どんな泥でも這い出してくる。


 煙草に火をつけ、ひと息吸う。


 紫煙が雨の匂いと混じって、車内に沈殿する。


 助手席の若い刑事が、窓の外を見ていた。


 榊原慶介は、まだ三十にも満たない、血の匂いを知らぬ無垢な目をしていた。


「……もう一度聞くが、本当に行くのか、榊原」


 萩枝の声は、低く濁っていた。


 ゼロクラウンのエンジン音に溶けて消えそうなほどだ。


「ええ、八つ目科学の金町工場、どうもおかしい。行政処分で操業停止中のはずなのに、やたら夜間照明がついていて、機械が回ってるって話です。あそこが、今回の事件の鍵を握ってる気がするんです」


 若い声が、まっすぐで、痛かった。


 萩枝は笑い、煙を吐いた。


「若ぇな。お前みたいな刑事が、昔は山ほどいた。正義感だけで捜査線に首を突っ込んで、気がつきゃ"死因不明"の遺体袋に入って帰ってくるんだ」


「忠告ですか?」


「いや……ただの年寄りの回想だ」


 榊原は、萩枝の横顔を見た。


 その眼に、嫌悪と興味が混じっていた。


「萩枝さん、あなた、最近やけに、俺に八つ目科学の話をしたがりますね。まるで――誰かに指図されてるみたいだ」


 その言葉に、萩枝の眉がわずかに動いた。だが、すぐ笑みに変わる。


「はは、俺が誰かの言いなりになるって?俺はな、定年まであと半年、それから先は安酒と年金でくたばる予定の男だ。出世も金も、もうどうでもいい。ただ――最後くらいは、この事件の真相をしっかり見てみたいだけさ」


 榊原は、それを信じた。


 純粋な者ほど、嘘を疑わない。


 雨脚が強まった。


 高速道路の照明が、ぬめるように路面を光らせる。


 萩枝の眼だけは、異様に冴えていた。


 ――八つ目科学。


 操業停止中の工場。


 会社としてはもう『終わっている』八つ目科学。


 しかし、金町工場には五百億円の火災保険が掛けられていた。


 八つ目科学が傾く前、最新設備が工場で導入されていた時から掛けられ続けていたものだ。今では何億円の価値が残っているのかも怪しい。


 もし、金町工場が、火事、爆発で吹っ飛ぶとなれば、悪事の証拠もろとも、古工場の厄介払いができる。巻き添えを食った周辺の会社や住民に賠償金を払っても、いや、泡渕と葉烈峰はびた一文払うつもりはないだろうが、安いものだ。

 

 自分が、五十万円と引き換えに、半グレ組織、恵比寿舞龍権に流した捜査情報の末路が、今、東京の街を無間の地獄に突き落とそうとしている。

 

 萩枝は、罪悪を感じなかった。


 死の臭いがするところには金が溜まってる。


 萩枝の持論だった。


 死の臭いを、嗅ぎ分けられる嗅覚を与えてくれた造物主に萩枝は感謝していた。


「……のお、榊原」


 ハンドルを握ったまま、萩枝が呟く。


「お前、もし何か見つけても、すぐに突っ込むなよ。まずは、周りを見回せ、安全の確認からだ。何も考えず突っ込んで、終わっちまった奴を俺ぁ何人もみてきた」


「あっ?……はい」


 恐らく何も考えていないだろう、榊原のその返事が、萩枝には甘く響いた。


 ふん、情けをかけて、教えてやったが、全然聴いとらん、こいつは無理だな……。気をとられたら、何も考えずに突っ込むタイプだ、少し可哀そうな気もするが。


 ゼロクラウンは、小松川線に入った。


 錦糸町を過ぎた頃に、激しい稲妻がはしった。


 雷鳴に車体が震え、窓にパチパチと雨粒が弾ける。


 萩枝は、前方の闇に目を細めた。


 一の江ランプでゼロクラウンは環七通りに降り、水戸街道に入った。


 八つ目科学金町工場の雨に煙る黒いシルエットの煙突がそびえていた。


 その奥――


 榊原の"仕事場"が待っていた。


「……さあ、行くか。地獄の見学に」


 アクセルを踏み込む。


 エンジンが唸り、車が闇を切り裂いて進む。


 榊原の眼に映るのは、ただただ、降りしきる雨。


 萩枝の眼に映るのは、燃え上がる札束の幻。


 二人を乗せた車は、濡れたアスファルトを滑りながら、

 

 金町工場のゲートへと、ゆっくり近づいていった。

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