第65話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 18
外では、いつの間にか雷鳴が遠くにくぐもっていた。
「一人の生物学者の男。――その男が、ある節足動物遺伝子の“封印”をこじ開けたらしい」
加奈子の目が動いた。
「……封印?」
「羽斑蚊。マラリアを孕んで人間に媒介する虫だ。だが、奴の研究所ではそれを『媒介させる』だけじゃなく、その虫そのものを“作り変えて”いた。どうやら、李雪蘭という女学者がリーダーだ。……刑事さん、名前は聞いたことがあるか? その煉脈連。
中華圏を拠点に、科学者とマフィアを混ぜたような組織だ。表向きは民間研究財団。だが、実態は“外道の科学”の掃き溜めさ。各国で倫理に触れた実験をやらかした外道学者の連中をスカウトしては、科学技術を魔改造して、また外道の顧客に送り込む」
加奈子の瞳が細くなる。
「……李雪蘭も、その一員? 李雪蘭――中国系の研究員。そいつが今、日本の煉脈連で暗躍している。柘植は知らずに、彼女の掌で悪魔の実験をやってた」
加奈子の喉がごくりと鳴る。
目の奥に、警察官としての直感がうごめいた。
「……その“作り変えた蚊”が、東京に……?」
涌嶋加奈子は腕を組んだまま、眼だけで応じた。
阿羅業は笑った。
冷たい笑みだった。
「さあな。何とも言えん。ただ、ひとつ言えるのは――柘植の手を操ったのは、怨念だ。奴は黙々と研究を進めてきたのにそのキャリアを、実績不足という一言で否定された。その呪いが悪魔の実験に昇華した」
なんともいえない静寂が彼らを包んだ。
「刑事さん」
阿羅業が、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「この件、もし本格的に捜査が入るなら……彼の名も出る。彼が何をやらされたのかは俺と綾香の他は誰も知らん。もしもの時は、彼だけ“外”に逃がしてもらえると助かる」
声の端がわずかに笑った。
それは冗談のようでいて、冗談ではなかった。
加奈子は、まぶたの奥で眼光を鋭くした。
彼の言葉が、試しの刃だとすぐに見抜いた。
「司法取引……彼の刑事免責を求めているの?」
「言葉が早いな」
阿羅業は肩をすくめた。
「彼は人を殺したかったわけじゃない。だが罠にはまって法も踏んだ。お前さんの上司は、そういう奴の首を切り落とすのが仕事だろう?」
「ええ、仕事です」
加奈子は立った。
スーツの裾を整えながら、阿羅業を見下ろすようにして言った。
「でもね、先生――私は彼を“逮捕する側”に置くつもりはない」
阿羅業の目が細く光った。
「……ほう」
「あなたがもし、柘植達郎の残したものを“止められる”なら、彼の罪は、まだ量る価値がある。だから――今は泳いで。泳ぎ切って。その代わり、あなたが嘘をついたら、私が最初にその首を刎ねる」
その声音には、氷と火が同居していた。
阿羅業はしばらく黙っていた。やがて、笑みを浮かべる。
「……刑事ってのは、時々、神様より恐ろしいな」
「あなたも、神よりも優れた医者でしょう」
二人の間に、言葉にならない緊張が流れた。
丈二が壁際で煙を吐き、飽きたように呟いた。
「やれやれ……お互い、キワドイ取り引きが好きねぇ。でもまあ、阿羅ちゃん、加奈ちゃんが言う通りよ。泳ぐしかないわ。この熱い海の中で」
雷が近くで鳴った。
瞬間、窓の外の東京の空が真白に光り、すぐ闇に戻る。
阿羅業は、その光の余韻の中で呟いた。
「……刑事さん。柘植達郎は人間としては、まだ生きてる。だが、“科学者”としては、もう死んだかもしれん。あとは――あんたが彼とどう対決するか、それによって俺はあんたの敵にも味方にもなる」
加奈子は無言で頷いた。
そして、扉の前で一度だけ振り返る。
「先生。私はあなたを信じない。でも、あなたの手を借りる。その意味、わかるわね」
「……俺は、燃える街で医者をやる。それだけだ、でも……せっかくご足労をいただいたのだ。一つ、手を貸そうじゃないか」
阿羅業は白衣のポケットから、USBメモリを取り出して加奈子に託した。
「捜査の助けになるかわからんが……李雪蘭の正体に近づけるかもな」
加奈子はUSBメモリをバッグにしまった。
「ありがとう、先生。私たちも鬼ではない。しかし……法の番人であることは忘れないで」
扉が閉まる。
加奈子の背中が、闇に溶けていく。
雨は再び降り始めていた。
病院の屋根を叩くその音が、まるで東京そのものの心臓の鼓動のように響いていた。




