第64話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 17
遠くで救急車のサイレンが消えかけ、代わりに耳に届くのは、病院の、清浄空気発生装置が噴き出す低い空気の唸りの音だけだった。
加奈子は、その音を背に、白衣の巨体――赤嶺丈二の後を追っていた。
泥に汚れた靴音が、廃墟じみた渡り廊下に響く。
「……加奈ちゃん、ビビることないわよ」
丈二の声は、疲労の底に微かな笑みを含んでいた。
「これから会う人はね、悪魔でも神でもない。ただの、"生きてる人間"よ。中身は常人とはちょっと違うけど」
階段を上るごとに、空気が冷えていった。
鉄の匂い。消毒液の匂い。
そして、どこか重々しい淀んだ空気。
ドアの前で丈二が立ち止まった。
分厚い扉をノックする。
中から「入れ」と短く返る声。
加奈子は一歩、足を踏み入れた。
暗い部屋だった。
蛍光灯の一つが切れかけ、壁の影が息をするように揺れている。
その中央――机に両肘をつき、白衣の襟を緩めた男がいた。
阿羅業神醫。
まるで硝子の中に封じられた遺体のように、静かに座っていた。
だが、その眼は生きていた。
氷のように澄み、闇を見透かしていた。
「……刑事さん、らしいな」
阿羅業は机に広げた古い書類をまとめると、紙埃を指で払った。
「赤嶺から聞いた。マラリアに罹った死体を追ってるそうじゃないか」
加奈子は頷いた。
「ジョージと、片山医局長にはこれまで逢ったことがありましたが、初めてお目にかかります。あなたが――阿羅業先生ですね」
「呼び方は好きにしろ。神醫でも、糞医者でも構わん」
男は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
外の夜景を背に、振り返らぬまま低く続けた。
「この街が、燃えている。病の熱のせいだ。これまで、破傷風、マラリアと熱を孕んだ病が東京を見舞った。だがその熱は――全部、何者かの手で熾された"熱"だ。だがな、熱は病気だけが持つもんじゃねえ。人間の欲も、正義も、みんな熱を孕む。そして、街がその熱に耐えられる限界を越えたとき……都市は燃える、命が焦がされる、何者も生きられなくなる」
加奈子の喉が鳴った。
ただの一人の人間として聴く"重たい言葉"だった。
「……実は、この医局の広瀬綾香副医局長から連絡をいただきました。彼女の『友人』の方が、今回のマラリアの騒動に関わっているのではないかと心配していました」
阿羅業はようやく振り返った。
その瞬間、照明の光が、彼の頬の古傷を鋭く浮かび上がらせた。
「……彼女からは、俺からあんたに報告してほしいと頼まれた。今、彼女は刑事と話をできる状況ではない」
阿羅業の声は静かだった。だが、その静けさは、海の底のように深淵で重かった。
「人は誰かを救うために、他の誰かを切り捨てなければならないときがある。医者でも誰でも同じだ。だがな――切り捨てた命に対する苦い記憶は、何時になっても、何をやっても消えないんだよ。俺たちは、その記憶を抱えたまま、次の救いを待つ命の前に立ち続ける。おれは彼女と『友人』を救いたい、だから、あんたに来てもらった」
丈二が、加奈子の眼を見据えた。
加奈子が呟く。
「……この街の熱は、もう下がらないのね」
阿羅業が小さく笑った。
笑いながらも、その眼は泣いていた。
「下がることはなかろうな。だがな――燃え落ちる街でも、まだ誰かを救えるうちは、俺たちはそいつを捨てられねえ。命を削ってでも、まだ救えるうちはな」
その言葉に、加奈子は静かに頭を下げた。




