第62話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 15
「長谷川隊長に報告してくる、慶介、会議室で待ってて」
加奈子は長谷川栄蔵に報告に立った。
既に外は暗くなっていた。
会議室の蛍光灯を点けて榊原は加奈子の帰りを待つ。
庁舎の廊下にはもう人気もなく、蛍光灯が規則的に瞬いていた。
捜査一課の会議室に残っていたのは、加奈子と榊原慶介だけだった。
ホワイトボードに貼った地図の上に赤いピンが並ぶ。
北千住、金町、亀有、柴又、高砂、松戸。
感染者の分布と、八つ目科学金町工場の場所、車両の動線が、奇妙なまでに一致していた。
あそこには秘密が隠されている、感情が昂った榊原は拳を机に叩きつけた。
激しい衝撃音が会議室にこだました。
「落ち着け、慶介……」
加奈子が報告を終えて会議室に入ってきた。八つ目科学の捜査に、と焦る榊原を諭す。
しかし、榊原の耳には届かない。
「もう待てません、警部補! 工場を押さえるしかない!」
加奈子は黙って煙草を咥えた。
「今、長谷川隊長にも上申した、が……まだ、上が動いてくれない……。物的証拠が薄い、とね。上層部はマラリアの感染禍はまだ、偶発的な輸入感染症だと信じているらしいし。それに、表向き業務停止している行政処分中の工場に無理くり、踏み込めば、今度はこっちが処分を食らう」
「そんなこと言ってる間に、また誰かが死んでしまいます!」
榊原の声が会議室に響いた。
若い血の熱が、冷え切った空気を震わせた。
加奈子は榊原を見つめた。
彼のその眼差しは、かつての自分を見るようでもあり、頼もしかったが、血気にはやって無理を重ねて死に急がんとする若者の姿を目の当たりにしているようで、哀しかった。
「そういえば……お前の兄さんも、そうやって、昼も夜も事件が起こる度に突っ走ってた……」
榊原の胸が、ふっとわずかに揺れた。
兄、一真。
殉職した刑事の兄の背を追いかけて、この道を選んだ男だった。
肚は座っていた。険しい貌で榊原は言い放った。
「兄貴は、正しいことをした。それで死んだんだから、本望ですよ。兄貴は後悔してませんよ」
沈黙が落ちた。
窓の外では、遠くに救急車のサイレンが尾を引いていた。
最近は、ひっきりなしにサイレンが聞こえているような気がする。
今も誰かの命が病魔に連れ去られようとしている。
まだ手が出せないのは歯がゆい……が、
加奈子はゆっくりと言った。
「……勝手は許さない。今は耐えて証拠を積み上げる時だ。証拠が揃えば、必ず動ける。焦るな、慶介」
榊原は小さく頷いたが、その眼は沈黙していなかった。
「私は、これから大学病院に行って、専門家の話を聞きに行くが、一緒に来るかい?」
険しい表情から彼の心情を察した加奈子が声をかけた。
「いえ、熱くなりすぎたようです。家に帰って水風呂にでもつかって頭を冷やしてきます……」
「……そうだな、死体があがってから、ずっと根を詰めてたんだ、今晩ぐらいは家に帰るといい」
榊原は、頭を下げ、加奈子を残して会議室を出ると、拳を握りしめたまま、廊下の窓から夜の街を見下ろした。
東京の灯りが、まばゆく光っている。
空気が湿って重く、遠くに雷鳴が低く唸った。
彼はポケットから古びた手帳を取り出した。
兄、一真の手帳。
角は擦り切れ、表紙には焦げ跡が残っている。
その中の一行に目を落とす。
「現場は、待ってはくれない。」
榊原は息を吐き、ゆっくりと手帳を胸に戻した。
そして、自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
「兄貴……見ててくれ。俺も行くよ」
激しい雨が降り出した。
路面の光が滲み、街全体が呼吸しているように見えた。
榊原は庁舎を出て、夜の闇に溶け込んだ。
目的地は――葛飾金町。
操業停止中で封鎖されているはずの八つ目科学工場。
その中で、何かが蠢いているとしか思えなかった。
若い刑事の影が、濡れた舗道を渡っていく。
その足取りは迷いなく、
死を知る男の静かな決意を纏っていた。




