第61話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 14
東京都内では、マラリアの感染クラスターがじわじわと広がる最中、涌嶋加奈子達は、神田川に浮かんだ他殺死体の捜査に忙殺されていた。
被害者は、北区滝野川に本籍がある非正規アルバイト従業員、鳥居修二、三十歳。
あちこちのバイト先で借金をしては、踏み倒して逃げ回っていたらしく住居を転々としていたらしい。
鳥居からは、直接犯人の臭いは嗅ぐことはできない。
だが、マラリアのクラスター発生の直前にマラリアを患い、瀉血され遺棄された事実からは、今回のクラスター発生と何らかの関係があるもの、と加奈子と長谷川は踏んでいた。
神田川の事件を追うことは、マラリアの感染禍を追い詰めることに繋がる、この事件もないがしろにはできなかった。
加奈子は、手帳を片手に、川沿いの商店や事務所を一軒ずつ回っていた。
隣には若い刑事――榊原慶介。
川面を吹く風が生臭く、泥と血の匂いが入り混じる。
川の流れの音の向こうで、街はいつも通り動いている。
だが加奈子の刑事としての直感が、街の中に残るわずかな"手がかり"を嗅ぎ取っていた。
涌嶋は手帳を閉じ、濁った流れを見つめた。
「……榊原、川沿いの聞き込みを続けよう。事件の前の夜に動いていた車、作業員、ホームレス、全部洗え」
榊原は頷き、走り出した。
灰色の空の下、湿った風が髪を乱す。
まだ二十代の血の熱さを隠しきれない目で、通行人の顔を追っていた。
榊原には、警視庁刑事の兄がいた。
五年前に、兄・榊原一真 は強行犯捜査係の刑事として勤務中に殉職した。
逃走中の通り魔を追跡中、負傷した市民を庇い、刺殺されたのだった。
当時、慶介は警察学校の生徒だった。
兄の血にまみれた警察手帳を手渡された夜、彼の中で何かが変わった。
心の奥底には常に兄の死への負い目がある。
あの夜、もし自分が警官として傍にいたなら──という悔恨を今も抱え続けている。
そのせいなのか、「兄のように死ぬなら、それでいい」と公言してはばからない。
「兄貴が命で守った"命"を、今度は俺が守る」
この言葉を胸に、以来、誰よりも"現場"に立つことを榊原は、誇りにしていた。
何件目かの聞き込み先の、不動産屋の老主人が口を開いた。
「見たよ、夜中の十一時過ぎだったかな。防護服を着た奴が、二人で、ドラム缶を抱えて川沿いを歩いてた。背中にでっかいライトを付けてて……、不気味で、声も掛けられなかったよ、すぐドアを閉めてそれっきりだったが」
榊原が顔を上げた。
「防護服、ですか? パニック映画で見るような、白い――あれですか」
「そう。あの宇宙服みたいなやつだよ。で、車は、白のハイエースだ。ナンバーが……ええと、葛飾ナンバーだったな、一桁、8」
榊原の指先が動いた。
メモ帳に「葛飾ナンバー8」と走り書きしながら、視線を涌嶋に投げた。
二人の間に、無言の理解が走る。
「……ハイエースか」
加奈子の眉間に皺が刻まれた。
「このあたりを流していた車を、全部洗い出せ」
二人は防犯カメラの映像を物色し始めた。
交番、商店、河川監視。
録画データを、警視庁に戻り、確認する。
モニターが青白い光を吐き出し、ノイズが画面を覆う。
榊原が画面に食い入る。
「……待ってください、ここ……!」
画面の奥、街灯の光を横切る車の影。
夜霧を裂くように走って土手沿いに止まった白いハイエース。
その一瞬、ヘッドライトが橋脚を照らし、ナンバープレートの文字がかすかに浮かび上がった。
加奈子は息を呑んだ。
「止めろ、コマ送りにしろ」
画像を拡大。
ナンバーは「8」。
車体の横、に、かすれた会社ロゴが映っていた。
"八つ目科学"。
室内の空気が重く沈む。
榊原の喉が鳴った。
「八つ目科学……今、行政処分中の医薬品メーカー……」
加奈子は腕を組み、低く呟いた。
「行政処分中のくせに、何故か、夜。人目を忍ぶように動いている……。奴らがドラム缶の中の何かを流したんだ。――神田川に」
榊原は拳を握った。
若い血の情熱熱が、冷えた川の水面に反射する光とぶつかり合うようだった。
「警部補、詰めますか?あの工場を」




