第60話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 13
埼京医科大学病院、内科外来。
ほとんどが紹介状持参の予約患者が中心だが、それでも、マラリア禍の中、担当医は休む間もなく診療に忙殺されていた。
午前十時。
外来待合の空気は、いつになく湿っていた。
マスク越しの呼気が曇り、消毒液の匂いが白く漂っている。
広瀬綾香は、電子カルテをスクロールしながら、
患者の話を聞いていた。
だが、頭の奥の、別のノイズが彼女を悩ましていた。
――昨夜、阿羅業が言っていた。
"もう街の熱は、止まらねえ"
まるで呪文のように、その言葉が耳の奥に残っている。
そこへ、不意に、身体の奥で違和を感じた。
下腹部が、重く沈む。
激しい痛み……。
胸の奥がざわめき、視界の隅で蛍光灯の光が滲んだ。
綾香は、カルテを閉じ、椅子を引いた。
「……少し、失礼します」
診察室の奥へ向かう途中で、
脚の内側を、ぬるっと液体が伝った。
見下ろした白衣の裾に、赤い染みが広がっていた。
息が止まる。
それは、声のない悲鳴が上がる。
看護師が叫ぶ声が聞こえた。
「先生!? 先生、大丈夫ですか!?」
答えようとしたが、口が動かなかった。
腹が波打つように痛んだ。
視線の先の廊下の床が遠ざかる。
頽れて片膝をついた時の、冷たいタイルに触れた感覚だけが、鮮明だった。
――意識が途切れた。
次に目を開けたとき、
眩しい照明が頭上にあった。
見覚えのある器械と匂い。
婦人科の処置室だった。
傍らに立つ若い産科医が、沈痛な声で言った。
「……広瀬先生、聞こえますか。大丈夫です、出血は止まりました。でも……残念ながら、お子さんは……」
頭の中の時計が止まった。
彼の、その言葉が意味するものを理解するまでに、
数秒かかった。
指先が冷え、喉が乾く。
耳の奥で、何かが破裂する音がした。
「……そんな、はず、ない……よ」
声が掠れた。
「昨日まで、元気に……心拍も……」
医師は、言葉を探すように眉を寄せた。
「いや、こればかりは……どう、しようも……」
綾香は、片手で顔を覆った。
掌の中で、世界がぐにゃりと歪んだ。
涙が出ない。
それよりも、なぜか心のどこかで、怒りが燃え上がっていた。
――どうして。
どうして、命を救うことを天職にした私が、自分のおなかの中の子ひとり救えないの。
目の前の点滴のボトルが、滴を落としながら、やるせない時を刻んでいた。
そのリズムが、消えた我が子の心臓の拍動の代わりのように思えた。
綾香は、両手で腹を押さえた。
そこには、もう何もなかった。
温もりも、鼓動も、そして、未来も。
「……ごめんね、ごめんね……」
声が震えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
窓の外では、聞こえてくる救急車のサイレンが、だんだん大きくなっていた。
外ではみんなが闘っている。
だがこの部屋だけは、全てが、完全に静止していた。
医師が小さく言った。
「しばらく、安静にしていてください。……今は、それしか」
綾香は、天井の白を見つめたまま、
声にならぬ呟きを漏らした。
「……達郎さん……あなたは、どこまで私から奪うの……」
白い天井が、涙の膜でぼやけた。
病室のドアが、きしみを立てて開いた。
油の切れた蝶番が、部屋の静けさを裂く。
白衣の影が差し込んだ。
阿羅業神醫。
無言のまま入ってきて、窓際に立った。
カーテンの隙間から、雨粒がガラスを叩くのが見えた。
ベッドの上の広瀬綾香は、まだ点滴の管に繋がれたまま、目を閉じている。
気づいたように、わずかに顔を上げる。
目の下は赤く腫れ、頬には乾いた涙の跡が残っている。
「……阿羅業……」
声はかすれていた。
阿羅業は答えず、しばし黙って窓の外を見ていた。
雨粒がガラスを叩き続け、遠くで救急車のサイレンが尾を引いていた。
「こんな時に、すまんが……」
ようやく、低い声が落ちた。
その声には、慰めの響きも、同情の温もりもなかった。
ただ、現実の冷たさだけがあった。
「……ジョージから聞いた。お前、あのジョージの知り合いの女刑事――涌嶋加奈子に、柘植のことを相談したいと言っていたそうだが、近々、事情を聞きに来るという話があった。……こんな時だ、無理をさせるわけにもいかん。もしよかったら、代わりに俺が話をしておこうかと思ってな」
綾香は目を伏せ、唇を噛んだ。
細い肩が震えた。
その震えは、嗚咽でも怒りでもない。
ただ、祈りに似た静かな絶望だった。
「……阿羅業……お願いがあるの」
彼女は両手で毛布を握り、
頭を深く下げた。
「達郎さんを……警察に、連れて行かせないで。あの人は、悪い人じゃない……ただ、悪魔の囁きに呑まれただけなの。間違っていたって、きっと気づける……だから、だからどうか――」
声が震え、途切れた。
白い天井の下で、彼女の涙が枕を濡らす。
阿羅業は、しばらく動かなかった。
表情も、声も、何も変えずに立ち尽くしていた。
やがて、ゆっくりと歩み寄ると、
ベッドの脇、綾香の手の甲に、そっと自分の手を置いた。
その手は、幾百の命を切り、救い、あるいは、失ってきた医師の手だった。
温度はほとんど感じなかった。
だが、その掌に、奇妙な安堵があった。
「……わかった」
その言葉は、静かに落ちた。
約束とも、慰めともつかぬ響きだった。
「なんとかする」
綾香は、泣きながら頷いた。
その頷きが、最後の力を振り絞るように見えた。
阿羅業は、ポケットから煙草を取り出した。
だが火は点けず、指先で弄ぶだけだった。
視線を窓の外に向ける。
雨が止みかけていた。
ビルの谷間の陰の向こうに、わずかに晴れ間の気配があった。
「……奴を救うのは難しくても、だが、守るだけなら――やりようはある」
小さく呟き、彼は背を向けた。
病室を出るとき、阿羅業はもう振り返らなかった。
扉が閉まる音が、静かに沈んでいく。
残された綾香は、胸の上に手を重ねた。
雨が止んだ。
雲の切れ間に、わずかな陽の光が差していた。
それは、哀しみの朝のあとに訪れる――
微かなのぞみをもたらすような、午後の陽光であった。




