第58話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 11
夜の実験室の空気は冷たく澄んでいた。
水銀灯がステンレスの器具に白い刃を落とし、スタンドに立てた試験管の曲面に淡い光が這う。
柘植達郎は顕微鏡の覗き窓に額を寄せ、視野を横切る生命体のわずかな震えを眼を凝らしてなぞっていた。
扉がわずかに開き、麝香の香が流れ込む。湿った夏の空気に混じる、甘やかな香り――ナルシソ ロドリゲス フォーハー。
振り向くと、李雪蘭がいた。黒髪は後ろで簡潔に束ねられ、顔には薄い笑み。今夜の佇まいは研究者というより、劇が始まる直前の舞台女優の挨拶のように華やかだった。
「先生……遅くまで、本当にお疲れさまです」
その呼びかけは、研究室内の空気を傷つけないほど静かだったが、綾香を失った達郎の耳に、深く鋭く刺さった。
彼は一瞬たじろぎ、すぐに表情を固くして視野に戻ろうとした。だが顕微鏡のベゼルを握る指に、微かな震えが走る。
李は机の端に肘を置き、覗き込むふうを装いながら、達郎の呼吸と鼓動のリズムを測るように、静かに、深く見つめた。
「先生は……やはり素晴らしい分子生物学者だと思います。誰にも真似できない精度で、新しい生命の糸を紡ぎ上げる。わたし、初めて見たときから、ずっとそう思っていました」
蜜のような讃辞が、長い渇きにひび割れた心を潤した。
達郎は顔を上げ、李の瞳を真っ直ぐに受けた。そこには非礼も媚びもない。あるのは敬意――過剰とも思える、熱い想い。
「この研究を、先生の手で世界に発表してください」
李はそっと机上の資料に触れ、指先をすべらせて、ひらりと持ち上げた。
それは、達郎が行った羽斑蚊に対する遺伝子干渉により、新種の生命体を完成させた業績の要旨が記された資料であった。
達郎は、来週、北京での熱帯医学会で速報として発表するつもりだ。
綾香は、何故かその研究に対して嫌悪感を抱いていた。
妊娠した彼女をないがしろにして、蚊の遺伝子改造に没頭したと邪推しているのか……?
それは違う、これは、綾香と生まれてくる我が子が誇れる分子生物学の巨星となるためのワン・ステップに過ぎないのに。
この成果が学会から絶賛されれば、綾香も自分の元にもどってくるはずだ。達郎はそう信じている。
「業績のすばらしさは、先生ならもう分かっておられるはず。もう少しで、成果は世界に届きます。来週の北京での学会で、先生の研究報告が認められれば、名声も……世界にとどろくはず」
言葉はささやきでありながら、達郎の頭から離れない怖ろしい呪文のようでもあった。
綾香との別離、失職の悔恨、削られた自尊心――それらが達郎の心の裡で淡く揺れる。
李は微笑を浅く引き、その目に礼の色を宿した。
「わたしには、先生が必要です。先生の名誉も、金も、立場も、わたしが取り戻す手伝いをします。――だから、どうか」
達郎は言葉を失った。
李はゆっくり身を起こし、達郎の肩に指を置いた。触れ方は軽い。だが、その軽さが忘れがたい印象に変わる。
「先生。あした銀座で。小さな祝杯を……先生の成功を、わたしに祝わせてください」
去り際の振り返り、短い頷き。
扉が閉まると、達郎には光と機械の音だけが戻った。
彼の視野に映るのは、顕微鏡の検体だけではなかった。
李の言葉、香り、指先の温度が求愛の残滓のようにとどまり達郎を幻惑する。
顕微鏡の視野の小宇宙と、李が語った大きな夢が干渉し合い、思考の焦点を狂わせる。
綾香の顔、別れの記憶、失業の屈辱、そして「先生」と呼ぶ柔らかな声――それらが交錯し、彼を均す。
ただひとつ――名誉を得たい、という承認欲求の渇き。
李雪蘭の微笑みは、勝利に結実するかのように見える。
達郎は顕微鏡にもたれ、小さく息を吐いた。
耳もとで繰り返される声がある――
「先生、世界を変えられるのは、選ばれた人だけです。それはご自分だと、分かっているはずです」
……。
六本木の街に雨が降っている。
達郎と別れ、傘を広げて、李は一度だけ振り返り、ヘッドタウンの26階を見上げた。雨に濡れた街灯の光をその瞳に拾った。
既に微笑は消え、残ったのは冷たい悪女の輪郭であった。
羽斑蚊の遺伝子の改造に成功した今、柘植達郎の存在は組織にとってもはや不要であった。
また、葉烈峰が企てている悪魔の計画の中核をなす重要人物であった。
ロンドンで処分した池之端博士と同じ運命をたどってもらわなければならない。
陰謀の内側で、一人の科学者の未来が揺れ始めていた。




