第57話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 10
阿羅業神醫は、医局の机に四隅が灼けた古い紙カルテを広げ、煙草の火を指先で弄びながら、ひとつひとつの症例の記録を追っていた。
窓の外は雨に濡れた街灯が滲み、室内は蛍光灯の白に沈んでいた。
紙は黄ばみ、灼けた角が破れ、インクは所々がにじんでいた。
だがその中に残された文字は、当時の医師の苦悩と絶望を、そのままに刻んでいた。
「解熱鎮痛剤に抵抗性の……発熱持続、四十一度、稽留熱。痙攣持続、意識混濁……」
書かれた数字と所見は、ただの診療記録ではなかった。
そこには逝った患者の声なき叫びが、検査値に裏打ちされた証言として聴こえていた。
阿羅業はページをめくるたび、眉間に深い皺を刻む。
「強直性痙攣、咽頭痙攣……チアノーゼ・呼吸困難増強……、酸素飽和度五十五パーセント」
震えるような筆跡で、主治医は止められぬ患者の死をありのまま記録していた。
まるで、自分自身を責める懺悔の手記にも思える。
掠れた走り書きが、カルテに添付されて残されていた。
《我が手は、病人を救えなかった。だが、この記録が後の者の命を救うなら、せめて贖いとなるだろう》
阿羅業は煙草を灰皿に押し付け、静かに目を閉じた。
「カルテの……遺言だな。患者の呻き、患者の想いが、紙の上で生き続けている」
冷たい空気の中、カルテはただの紙切れではなく、
病死者の遺言として、阿羅業の胸に迫っていた。
その重みを背に感じていると、医局の扉が軋む音が静寂を裂いた。
開いた扉の向こう側に、広瀬綾香が立っていた。
顔は青ざめ、唇は乾き、両の手は腹を押さえるように固く結ばれている。
その瞳には、希望を映す光はなく、ただ黒い湖のような絶望が広がっていた。
「阿羅業……」
声はかすれて、今にも途切れそうだった。
「お願い……この子を……私から取り除いて」
阿羅業は視線を上げた。
彼女の頬に浮かぶ涙の跡を見ても、表情を動かさなかった。
指先で煙草を灰皿に押し潰し、低く響く声を返した。
「……お前は、何を言っているのか分かっているんだろうな。一旦、命を宿しながら、自らその命を喪おうとしている意味が。それがどれだけの罪なのか」
綾香の肩が震えた。
「分かってる……でも、あの人はもう、達郎さんは……研究の魔に取り憑かれて、私も赤ちゃんも、見えなくなっている。彼に壊された未来を、この子と生きるなんて……」
言葉は涙に滲み、最後は嗚咽にかき消された。
阿羅業は深く息を吐き、冷徹な眼差しで突き放すように言った。
「俺は医者だ。命を救うためにいる。殺すためにここにいるわけじゃない。……もう少し考え直せ。その子は、何も背負っていない。お前が背を向ければ、その子は誰も守れなくなる」
綾香は声もなく立ち尽くした。
その姿は、嵐に翻弄される枯れ木のように脆いけれども、しかし必死に踏みとどまっているようだった。
阿羅業の胸の奥にも、カルテに残された患者の死の重りが沈んでいる。
医師としての矜持と、人としての憐憫が交錯する、暗い夜の対峙だった。
「綾香、おまえはまだ混乱している。これから先、柘植に取り憑いている妄執が霧散する可能性だってあるのだ。早まって、取り返しがつかなくなることだってあるんだ」
「……わかった。もう少し、待ってみる。おなかの子とも、相談して……決める」
「それが、今はベストな選択だと思う……」
綾香は、一筋、頬に流れた涙を拭うと医局の扉を閉じた。




