第56話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 9
達郎の実験室は、真夏の夜まるで氷の箱のように冷えきっていた。
達郎は、顕微鏡に額が触れそうなほど身を沈め、黙々と液体用微量体積計を動かしていた。
落ち窪んだ双眸には、作業にとりつかれた亡者の闇が浮かんでいた。
手元の動きは神の手のごとく、精緻・正確で、毎回の呼吸すら作業のリズムに同化していた。
扉が軋み、広瀬綾香が静かに入ってきた。
彼女の目は、疲弊した婚約者の背を見て、かすかに揺れていた。
「達郎さん……」
返事はない。
ただ、試験管を並べる音と、ペンで記録する紙の擦過音だけが響く。
綾香は歩み寄り、声を重ねた。
「ねえ、聞いてちょうだい。あなた、最近は顔色も悪い。食事もろくにとっていないでしょう? こんなに自分を削ってまで……」
その声に、達郎はようやく顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳は、興奮と疲労で赤く濁っていた。
「綾香……今、やめられないんだ。今のこの作業の一つ一つが――未来に繋がる」
「未来……?」
綾香は唇を噛んだ。
「その"未来"が、誰のためのものなのか、考えてる? あなた自身の身体を壊してまで、何を追っているの?」
達郎は俯き、震える声を吐き出した。
「……俺には、これしかないんだ。研究が俺を救ってくれる。これまでに失ったキャリアを取り戻すために……」
綾香の目に涙が滲んだ。
彼の執念は理解できた。だが、その執念が確実に彼を蝕んでいるのも見えていた。
「達郎さん……あなたが壊れてしまったら、誰が残されるの? 私とおなかの赤ちゃんに、あなたの影だけを抱かせるつもり?」
しばし、沈黙の時が流れた。
実験室の冷たい光の下で、二人の影が長く床に落ちて重なった。
綾香の手が震えながら伸び、達郎の指先に触れた。
その温もりに、達郎は初めて顕微鏡から目を離し、彼女を見た。
その眼差しの中に、科学者としての狂気と、一人の男としての弱さが、同時に滲んでいた。
柘植達郎の机の引き出しは、半ば壊れかけたように開いていた。
綾香は引き出しに視線を移した。
綾香の目に飛び込んできたのは、赤い封筒に挟まれた航空券と、擦り切れたパスポートだった。
出立は一週間後、航行目的地は――北京。
彼が、自分に黙って、日本を離れようとしている?
その疑念が、胸に冷たい刃のように突き刺さった。
「……綾香」
達郎の方に振り返ると、彼の手には、小さな黒いケースが握られていた。
ハリー・ウィンストンの刻印が、白い蛍光灯に鈍く光る。
達郎が、震える指でケースを開くと、中にはまばゆいほどのダイヤモンドが眠っていた。
「結婚しよう。俺は、これから、北京へ行く。もっといい仕事ができることになった。だが、帰ってきたら……必ずお前と」
声は必死だった。
しかし、綾香の瞳は凍りついていた。
彼女はゆっくりと首を振った。
「……達郎さん。何をおっしゃるの?あなたはもう、私じゃなく、研究と一緒に生きている。私じゃなく、机の上の書類や、海外での成功の方を見ている。そんなあなたにはついては行けないわ」
綾香の言葉は刃となり、彼の胸を深々と突いた。
指輪の輝きは、瞬く間に色を失った。
達郎の肩が震える。
綾香は背を向けた。
涙は見せなかった。
その背中は、決意と悲しみをひとつに刻んでいた。
綾香の背に向かって達郎は叫んだ。
「わかったよ、でも俺はあきらめない。北京から帰ってきたら、必ず、お前を振り向かせてみせる……」




