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第55話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 8

 床・天井・壁を全て白く塗り上げられた二十五平米の密室、天井近くには直径三十センチの通風孔。そして観音開きの、ドア。


 ドアが開かれ、予防衣とゴーグル、虫よけの帽子にN九五マスクで身を護った二人の作業員が、先ほど大久保公園の『パパ狩り』で捉われ、手錠と足枷に拘束された裸体のマルタを室内に放り込む。


 ドアが閉じた。


 床に転がされたマルタは、這うようにしか動けない、汗と恐怖に塗れた眼を見開き、天井を睨んでいた。


 その瞬間――羽音が鳴り響いた。


 高周波の唸りが、密室の空気を振動させる。


 天井近くの通風孔を覆っていた、メッシュ構造の蓋がはずれ、中から、黒い小さな影が室内に舞い込んだ。


 黒い蚊群、ただし、それは、常軌を逸した大きさの虫体だった。


 体長は一・五センチを超え、通常の蚊の三倍以上。


 腹部は鋭い縞模様を刻み、翅はガラス片のように硬質な音を立てて震えていた。


「やめろ……やめて……く……!」


 マルタの絶叫は、すぐに羽音にかき消された。


 群れは一斉に、餌に突撃した。


 剃刀のように尖った太い口針が皮膚に突き立ち、血を吸い上げる。


 一匹、二匹――十匹、二十匹。


 白い肌は瞬く間に赤い点で覆われ、吸血の痕が脈打つように膨れ上がった。


 マルタは鎖に引き裂かれそうなほど身体を反り返らせ、悶絶を繰り返し喉の奥から獣のような呻きを漏らした。


 目の前で、蚊の腹が赤黒く膨れ、血で光り輝いていく。


 透明だった翅は返り血を浴び、鈍い赤を帯びていた。


 羽音は嵐のように室内を埋め尽くし、鉄扉の外にまで響いた。


 捕食者たちの祝祭の合唱だった。


 そして、まだ群れは止まらなかった。


 吸い尽くしては飛び立ち、別の部位に突き刺さる。


 マルタの眼球に映ったのは、無数の黒い影――


 生きながら血を啜られる地獄の具現だった。


 電球の下、呻きと羽音が絡み合い、


 密室は、血と恐怖に塗り込められた拷問の場と化した。


 男の絶叫と、羽音の轟き。


 マルタは口から泡を吹き、動けなくなった。


 蚊群がマルタに注入したものは、マラリア原虫だけではなかった。


 蚊は本来、血を啜るために「抗凝固因子」と「免疫抑制ペプチド」を唾液に仕込み、宿主の血流を操作する。


 だが――その遺伝子に、異なるものが忍び込んだとしたらどうなるのか。


 李雪蘭が見せた映像。


 檻の中のマルタを襲う蚊は、通常の蚊群ではなかった。


 羽音は低く重く、体躯は膨れ、口針の先からはただの唾液ではなく細胞毒を含む液が注ぎ込まれていた。


 メラチン様の膜破壊ペプチド――赤血球を瞬時に崩壊させ、皮膚を泡立つように壊死させる。


 ソレノプシン類縁体――局所に黒い壊疽斑を走らせる。


 ホスホリパーゼ変異体――筋繊維を解かし、痙攣を引き起こす。


 これらが、蚊群の針口から、マルタの体内に注入されたのである。


 マルタの悲鳴はすぐに喉で途切れた。


 吸血はもはや血を啜る行為ではなく、細胞を殺す行為そのものに変質していた。


 皮膚は火傷のようにただれ、血は濁り、筋肉は融け落ちる。


 その腐臭は羽ばたきに掻き消される。


 葉烈峰は、映像を凝視しながら低く笑った。


「……これだ。従来の病を運ぶだけの蚊ではない。毒をもって直接、日本小鬼子を食い荒らす兵器だ」


 李雪蘭は無表情のまま頷いた。


「はい。彼らはもう“媒介者”ではありません。捕食者です」


 窓の外を、夏の湿った風が流れた。


 東京の夜のどこかで、すでに同じ羽音が忍び寄っているかもしれなかった。


 血を吸い尽くす群れの動きに、葉烈峰の口元が歪む。


「……これが、最終形態か」


「完成しました。あとは、大量に養殖を進めるだけです」


 葉烈峰はグラスを掲げ、満足げに呟いた。


「東京は、無間の阿鼻地獄になる……」


 天が、哭いた。


 激しい稲光が窓外の空を裂き、夜の闇に災厄の前触れを照らした。


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