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第53話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 6

 神田佐倉町の、志那虎薬舗の表向きは西洋薬のみならず、生薬・漢方薬も並べる総合薬局、そして、奥座敷では、医療界隈の闇と金の匂いの裏話の種には事欠かない。


 赤嶺丈二は巨体をどっかりと畳に沈め、徳利を傾けていた。


 対面に座る郭英志は、細い眼鏡の奥に笑みを浮かべ、骨ばった指で杯を支えていた。


 テレビの画面には、ニュースが流れていた。


 都内、葛飾区内で熱帯熱マラリアによる死亡者一名を確認……。


 画面テロップの一字一句が、奥座敷に重苦しい影を投げかける。


「郭ちゃんは、こうなること、知ってたんでしょ」


 丈二は杯を卓に置き、鋭い眼で郭を睨んだ。


 郭がため息をついた。


「……いよいよ来るもんが来やがったかって感じだよ、アフリカでは今年はマラリアの当たり年なんだ。コロンブスが新大陸で仕入れた梅毒はあっという間に欧州を席巻したというが、今回のマラリア騒動はそれにも負けんだろう……」


 郭は肩をすくめ、笑みを崩さぬまま口を湿らせた。


「病は災厄だが、薬を商う者には飯の種、市場が混乱すればするほど、仕入れた薬は高値で売れる。」


 丈二の目は笑わなかった。


「もうお遊びじゃねえの。人が死んでる。……郭ちゃん、そういうわけで、郭ちゃんに頼みがあるのよね」


 郭の指が杯の縁をなぞる。


「頼み?」


 丈二は低く呟いた。


「マラリアの治療薬、本国のブローカー筋からもう仕込んでるんでしょ?表には回ってこない奴。正規の市場ではさばけねえブツ。……それと――」


 言葉を切り、灰色の煙を吐き出す。


「日本じゃまだ認められちゃいねえが、マラリアのワクチンも欲しいの。郭ちゃんのルートなら、できるわよ、ね?」


 郭の瞳が一瞬だけ揺れた。


「……危険な橋を渡るつもりかね、丈二。堕ちるとしんどいぞ」


 丈二はにやりと笑い、拳を卓に叩いた。


「ずっと前から、新宿で救急医をしてること自体が、危険きわまりないのよ、郭ちゃん。いつ、どんな厄介ごとが飛び込んでくるかわかんなくって、ジョージ困っちゃう。だったら、目星がついてるううちに、さ、必要なものはあらかじめ集めとくの。それが少々セオリーから外れたものでもね」


 郭は杯を傾け、ゆっくりと酒を飲み干した。


 そして口元に再び笑みを浮かべた。


「……わかった。いい心がけだが、これから相場は暴騰する、高くつくぞ」


 丈二は巨体を揺らし、笑い返した。


「あったりまえよぉ、命より高いもんはねえし!その命を護るものならなおさらよ」


 奥座敷の灯が、二人の影を濃く重ねて揺らしていた。


 赤嶺丈二の携帯が低く震え、卓の上で鈍い音を立てた。


 画面には「マルケン・鈴木奈々男」の文字が灯る。


 通話ボタンを押す。


 受話口の向こうからは、弾むような声。


「丈二さあん、段取り整いましたぜ。上野を皮切りに、主要ターミナル駅にマラリアの検査診断所を開設できます。迅速診断キットも、海外からの輸入ルート、通関済みでございます」


 丈二は黙って聞いていた。


 煙草の火を指先で揉み消し、ゆっくりと口角を吊り上げた。


「……あんがと、奈々男ちゃん。これで生きるも死ぬも、一目瞭然だな」


 奈々男は得意げに続けた。


「ええ。しかもあっちこっちの会社で、出入りするにはマラリアの陰性証明がないとあかんって、またけったいなルールが出来つつあるんで、検査一件ごとに銭が湧きますぜ」


 丈二は短く笑った。


「金の話はあとね。まず、仕事が先よ」


 通話を切り、丈二はぐっと立ち上がった。


 畳が軋んだ悲鳴を上げ、徳利が音を立てて揺れる。


 郭英志はその様子を眺め、細い眼鏡の奥で笑みを深めた。


「行くのかね?」


 丈二は灰色の煙を吐き出しながら答えた。


「まず、上野に、マラリアの検査のお店をだすの。駅前にゃ人が溢れててるからさ。ターミナル駅毎に診断所を据えるのは、戦場に砦を築くのと一緒」


 奥座敷の障子を開けて外に出ると、むおっとした熱気が顔に当たった


 夜の神田佐倉町は湿った夏の匂いをまとい、遠くからガードの上をはしる中央線の電車の軋む音が響いてきた。


 街道に出て、丈二は手を上げた。


 タクシーが急ブレーキをかけ、ランプを光らせて停まる。


 巨体を押し込むように乗り込み、短く告げた。


「上野駅までお願い」


 窓の外の街の灯が流れてゆく。



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