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第52話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 5

 六本木・南陽熱帯医学研究所。


 夜遅くまで白い灯りの下にうずくまる柘植達郎の背は、かつての温厚な研究者の姿ではなかった。


 妄鬼が背部にとりついているかのようであった。


 綾香の食事の誘いにも応じず、電話にも生返事。


 顕微鏡と培養槽に張り付いたその姿は、もはや科学者より阿片窟の末期中毒患者に近かった。


 綾香は、硝子越しにその姿を見つめ、胸の奥に冷たい痛みを覚えた。


「……こんな達郎さん、知らない」


 翌日。


 彼が不在の研究室。


 綾香は、ためらいながらも彼の机に歩み寄った。


 引き出しに無造作に押し込まれた書類の束。


 震える指で一枚を抜き出す。


 そこに並んでいたのは、見慣れぬ記号と赤いマーカー。

 “RNAi(RNA干渉)による遺伝子発現抑制 と RNAa(RNA活性化)による遺伝子発現活性化”


 “dsRNAを蚊虫体に微量注入マイクロインジェクション


 “標的遺伝子:耐性マラリア応答”


 綾香の目が凍った。


「……RNA……マラリア蚊?」


 専門外の彼女でも理解できた。


 これは単なる昆虫実験ではない。


 病を媒介する蚊を、意図的に改変しようとしている記録。


 ページをめくるごとに、背筋が粟立った。


「継代飼育」「実験群」「感染効率」――。


 言葉の一つひとつが、禍々しい災厄の疫病に繋がっていた。


 綾香は書類を握る手に力を込め、息を殺した。


「達郎さん……あなたは、いったい何をしているの?」


 研究室の窓の外、蒸し暑い夏の闇に、蚊群の悍ましい羽音がかすかに重なって聞こえた気がした。


 それは彼女の不安から催された幻聴か――それとも、街を覆い始めた翳の現実の音なのか。


 綾香の胸に、冷たい気持ちが芽生えていた。


 達郎は、知らぬ間に闇の実験の渦に取り込まれている。


 雨の上がった夜の新宿裏路地。


 灯りの乏しい喫茶店の二階席に、広瀬綾香は静かに腰を下ろしていた。


 白衣のままでは目立つと知り、地味なコートを羽織っていたが、その胸の鼓動は隠せなかった。


 時間通り、ドアが軋む音。


 入ってきたのは、阿羅業神醫。


 鋭い眼差しをしたまま、言葉なく席に着き、ただコーヒーを注文する。


 綾香は震える手でカバンから封筒を取り出した。


「……これを、見ていただきたいんです」


 机の上に置かれた数枚の書類。


 そこには、柘植達郎の机から見つけた記録――


 “RNAi・RNAaによるマラリア蚊の遺伝子発現抑制と活性化”


 “dsRNA注入手技/標的遺伝子:抗マラリア応答”


 “継代飼育プラン”


 阿羅業は無言でページを繰った。


 瞳に一瞬だけ、氷のような光が走る。


「……これを、どこで?」


 綾香は唇を噛みしめた。


「達郎さんの机にありました。彼は研究に取りつかれたように没頭しています。でも、これは……普通の研究じゃない」


 阿羅業は封筒を閉じ、ゆっくりとポケットにしまった。


「……なるほどな。闇の連中が、柘植を喰っている」


 綾香の声は震えていた。


「助けてください……あの人は、気づかぬまま、恐ろしいものに巻き込まれている」


 阿羅業は深く息を吐き、彼女を見据えた。


「安心しろ。俺たちが止める。だが綾香……君も覚悟しろ。この書類は、ただの研究データじゃない。東京を、更にはこの国を超えて世界を脅かす悪魔の計画図だ」


 雨上がりの街の闇が、二人の影を濃く重ねていた。


 その重みは、すでに避けられぬ戦いの始まりを告げていた。

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