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第51話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 4

 帰国した長谷川は、休む間もなく、桜田門の警視庁に登庁した。


 薄暗い会議室。


 壁の蛍光灯が煌々と室内を照らしていた。


 状況の重さは、長谷川の貌に、暗いかげを刻んでいた。


 絶望的な空気が張り詰める中で、長谷川栄蔵は書類を机に置き、黙って顔を上げた。


 ロンドンで掴んだ書類の内容が、そのまま日本の喉元をきつく締め上げる鎖となる――彼はそれを痛いほどに理解していた。


 向かいには涌嶋加奈子。疲労の色は濃いが、その澄んだ瞳の中には、消えない炎を宿している。彼女は長谷川の差し出す写真と簡潔なメモに、ためらいなく目を落とした。


「王立研究所の監視映像だ。池之端博士の助手を務めていた若井美弥子の立ち入り許可証を持って研究所に侵入し、保管庫から保冷コンテナを抱えて消えた女はロンドンを出て、若井美弥子の偽造旅券で、成田空港の入管を潜り抜け、国内に潜伏した。1か月前のことだ」


 長谷川の声は砂を噛んだように低く、それでいて確かな力があった。彼が語る言葉の一つ一つが、加奈子の胸の奥で重く響く。


「池之端博士は、タイガー・モスキート(虎斑蚊コマダラカ)と呼ばれる、まだ自然界には存在しない新種の蚊の――のゲノムの一角を作り上げていた。だが博士は暗殺され、未完成の設計図だけが日本国内に持ち込まれた。このcDNAライブラリーだ」


 加奈子は指先で胸の前の紙束を押さえ、ゆっくりと息を吐いた。


「マラリアに罹患した男の死体が神田川に遺棄され、都内で、劇症型熱帯熱マラリアの患者が出た。ほとんどの警視庁の高官は偶然による輸入感染症による発症例と考えているようですが……私にはそうは思えません」


 長谷川は頷いた。


「この一連の流れから判断すると、単なる偶然の寄せ集めでは決してない。誰かが意図を持って動いている。監視映像の女は、素性を偽り、有害生物のcDNAを盗み出した。ロンドンの当局は、その中身が危険であると断言している。王立研究所が保管していたのは、未だ自然界にない『伝染病感染爆発の可能性』を秘めた生体試料であると」


 会議室には、かすかに夜の明かりが漏れて差し込んでいる。


 窓の向こう、東京の街は眠らない。その眠らない街を、死に絶えた街に変貌させようとする翳もまた、密かに差し込みつつあった。


「では、我々のやることは?」


 加奈子の問いに、長谷川は地図を広げた。


 東京地下鉄千代田線、JR常磐線沿線の駅名に指先が触れる。この路線は車輛の相互乗り入れを行っており、この地域の医療機関に対して情報提供を募る必要があった。


「まず、亀有駅現場周辺の疫学調査。感染患者の追跡、可能であれば媒介した蚊群の捕獲と解析だ。だが、それだけでは足りない。情報の源を追跡せねばならん。おそらく、この犯罪を主導したものは、本物、若宮美弥子に近い人物と思われる。彼女の交友関係を探れ、そして、偽物若井美弥子の情報、資金、移動経路、協力者の正体――全部を洗いざらい追跡する。ロンドンでの偽物の行動を見直し、成田入国以降の足取りを追わねばならない。俺はICPO、スコットランドヤードからは情報提供の協力を取り付けた。これらを元に、cDNAライブラリーの行方を追う」


 加奈子は一枚の写真を手で弾いた。そこには、池之端博士の研究ノートの一頁が写っていた。薄い紙に書かれた小さな手書きの走り書きが、何よりも重い。博士の字は、研究者の孤独と執念を宿している。


「盗まれたcDNAライブラリー……それを悪用されれば、東京の平穏は一晩で崩れる。幾千、幾万人の死者が出るだろう、子供が、親が、この東京に住まう者、皆が次々と倒れることになる。想像するだけで血の気が引く思いだ」


 長谷川は拳を机に叩いた。軽い音ではなかった。部屋の空気が震え、資料の一部が紙片の端から滑り落ちた。彼の眼の奥に、はっきりと“義”の焔が灯っていた。


「涌嶋警部補、君は現場を統括してくれ、私は国際協力と情報線の整理を引き続きやる。片っ端から当たる。ロンドンで掴み取った映像の一部は、すでに防疫部門と共有した。彼らも既に動いている」


「了解です。でも、長谷川隊長……これは単なる刑事事件では済まない。公衆衛生の危機にかかわる問題に発展しています。厚労省、国立感染症研究所、保健所と連携を取ってください。モニタリング、患者の治療体制、メディアの情報コントロール……パニックを抑える準備が必要です」


「メディアどもは…扱いにくい。だが、隠すことは許されん。発表は急ぐ。誤報で恐怖を煽るのは避けたいが、隠すことでより大きな被害を招く。情報は正確に、迅速に。だが統制を忘れずに出す」


 加奈子はテーブルに置かれたファイルを閉じ、窓の外を見やった。夏の夜の空気は湿り、生臭い匂いを含んでいる。遠くで蚊群の羽音が聞こえたような気がした。彼女はそれを振り払うように首を振った。


 長谷川は静かに息を吐いた。


 机の上に置かれた資料群は、夜明け前の静謐のように重かった。だがその重さは、同時に行動への推進力でもある。長谷川と涌嶋、その場にいる全員の胸の中で、決意が固まっていった。


「まず第一に、患者の行動歴と接触者。第二に、蚊の起源と感染経路の断絶。第三に、この事件によってもたらされる金の流れの追跡。そして最後に、犯人を逮捕してcDNAを回収する。ただし、回収は慎重にだ。生物学的危険物の扱いは専門機関と連携して行わせる」


 加奈子は手帳に鋭い字で走り書きをした。為すべき短い項目が次々と列挙された。やるべきことが見えた瞬間、姿の見えない強大な敵に対する恐れは後退する。


 捜査会議が終了したのは、夜明け前であった。

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