第50話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 3
国立感染症研究所、深夜。
白衣の技官は汗ばんだ手でスライドを顕微鏡にかけた。
常磐線亀有駅前広場で倒れた男性患者の血液――。
彼はここ数か月、都内から一歩も外には出ていない。熱帯の病など知るはずのない都市の住民から採られた血液検体だった。
対物レンズを回す。
視野を赤血球が埋め尽くす。
その中に、異様な影を見つけた。
リング状の寄生体。
二重に見える核。
赤血球の中で不気味に光る紫の影。
「……まさか」
声は震えた。
拡大を強める。視野のあちこちに、同じ影が浮かぶ。
技官は身を硬直させ、額に冷汗を浮かべた。
「プ……Plasmodium falciparum――熱帯熱マラリア原虫だ……!」
東京都内に、それは甦った。
かつて根絶したはずの亡霊が、現代の東京に舞い戻ってきたのだ。
報告書を震える手でまとめながら、技官は今の状況を理解していた。
これは単なる輸入症例ではない。
都内の住民の間でクラスターが生じている――。
媒介する"何か"が、この街の闇に潜んでいる。
遠く、窓の外。
夏の湿った夜気の中に、かすかな羽音が響いた。
それは、過去から呼び戻された死神の合図だった。
成田空港、夜明け近く。
滑走路の果てにかすむ朝陽の光を背に、警視庁特別重要犯罪特別行動隊長谷川栄蔵警視長は無言でタラップを上がった。
その巨躯の背に、日本の未来がのしかかっている。
インターポール経由で届いた捜査協力要請。
「王立研究所より、世界的危機にかかわる重要生体試料が紛失、アジア系女性が事件に関与しているものと思われる」
スコットランドヤードが捜査協力を求めてきた。
そして、この事件に、東京で発生した熱帯熱マラリアの影が重なっている。
ロンドン、ヒースロー。
冷たい霧雨の街に降り立った彼の前に、ICPOの紋章を掲げた黒塗りの車が止まった。
連れていかれたスコットランドヤードの会議室には、既に英国警察と国際機関の担当者が揃っていた。
壁一面に映し出された監視カメラ映像。
白衣を纏い、保冷コンテナを抱えて立ち去る小柄な影。
黒い瞳、無表情の幼い顔。
「――若井美弥子」
長谷川はその名を低く繰り返した。
「王立研究所に保管されていたのは、自然界にはまだ存在しない新世代・新種の蚊の、cDNAライブラリーです。もとはオセックスフォード大学の池之端博士が研究していたもの……博士は先日、キングスクロスの駅でホームから転落、列車と衝突して死亡、そのため、その蚊のcDNAが王立研究所に一時保管されました。この蚊は、超劇症型マラリアを媒介する能力があるといわれています。万一、自然界に出るようなことがあれば、世界的感染爆発を惹起させるのは必至。我々としては、遺伝子のままで検体をとり戻したい」
英国側の説明に、会議室の空気が重く沈む。
長谷川は瞳を細め、短く頷いた。
「その亡霊を盗み出したのが、カメラの女……池之端博士の助手、若井美弥子」
英国の警察幹部が話をつづけた。
「そうです、しかし、カメラの女は、日本から届いた書類にある若井美弥子と身体的特徴がまったく一致しない」
それは、長谷川も知っていた。
本物の若井美弥子は、東京、六本木のナイト・パブで接客業に就いている。
ずっと店に出勤しているのは確認済みだ。
カメラの女は本物若井美弥子の個人情報を盗み出し、本人になりすまし、ロンドンで何食わぬ顔で池之端博士の助手を務めていた。
恐らくは池之端博士の死にも関与している可能性も大だ。
ロンドンの自称、若井美弥子は日本語のみならず、北京訛りの流暢な中国語を話していたという。
あるいは、自称、若井美弥子の正体は中国人かもしれない。
自称、若井美奈子は、cDNAを盗んだ直後に成田に向けて出国していた。
「此奴の顔はしっかり覚えた、誰の名を語ろうが、日本に戻って必ず捕まえてやる」
机に置かれた書類に手を伸ばし、拳を固めた。
ロンドンの冷たい霧の中で、彼の視線はすでに極東の空を見据えていた。




