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第49話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 2

 東京の朝は、いつものように、鉄道の駅からひっきりなしに、街に吐き出される通勤者の人の波で始まる。


 だが最近、東京の波を構成する通勤者の動きは、連日続く暑さのためかのろのろと鈍かった。


 ここ数日、東京の空気は殊に異常であった。


 噴き出す汗は肌にまとわりつき、呼吸するたびに肺の奥に熱を帯びた空気が沈殿していく。


 街の温度計は朝から三十六度を超え、アスファルトの上に揺らめく陽炎が、まるで熱帯の密林地帯に立ち込めた蒸気のように立ち昇っていた。


 ビルの谷間を抜ける風すら暑く、地下鉄の階段を降りれば、さらにくぐもった熱気が、通勤者に襲いかかる。


 ワイシャツの背に貼りつく汗、化粧を溶かす湿気、誰もが不愉快さに顔をしかめながら、それでも電車へと吸い込まれていく。


「まるで赤道直下の熱帯の島のようだ……」


 誰もが口には出さないが、その思いは乗客すべての顔に刻まれていた。


 まるで東京そのものが、見えない手に握られてサウナ風呂の中に押し込められたようだった。


 湿度と熱がもたらす不快感は、人の心を苛立たせ、体力を奪い、いつしか街全体に焦燥と倦怠を染み込ませていた。


 その不快な熱気の中に、誰も気づかぬ「災厄の羽音」が忍び寄っていた。


 熱帯の空気と同様に、熱帯の邪悪な悪魔が東京に紛れ込んでいたのだ――。


 その時、常磐線亀有駅前の広場で、一人の中年男が突然ふらりとよろめいた。


 ワイシャツは汗に透け、額には脂汗。


「……暑い……」


 かすれた声と共に膝を折り、そのまま地面に崩れ落ちた。


 周囲の人々が慌てて駆け寄る。


「大丈夫か!」


 呼びかけにも応じず、男の身体は痙攣を起こし小刻みに震え、歯を食いしばっていた。


 その額は燃えるように熱く、瞳は焦点を結ばない。


 駅員が駆けつけ、救急車の手配を叫ぶ声が響いた。


 だが救急搬送された男の血液検査結果は、誰も予想しないものだった。


 ――熱帯熱マラリア陽性。


 日本ではすでに根絶されたはずの病。


 しかも、現在、媒介するガンビエハマダラカは、本来この国には存在しない。


 それは、東京に迫りくる災厄の最初の鐘の音だった。


 日本でもマラリアの流行した時期はあった。


 怖ろしい疫病の恐怖は、人々の暮らしを脅かしてきた。


 孑孑ボウフラは、水辺、湿地帯を好んで生息する。


 水田の広がる日本の農村はまさに彼らにとっては天国であった。


 夜の闇を震わせるシナハマダラカの羽音は、農夫にとっては死神の口笛であった。


 島嶼部や四国、九州の沿岸では、子供や老人が高熱と痙攣に苦しみ、バタバタと命を落とした。


 病名を知らぬまま、「悪霊の呪い」と恐れられた疫病の正体、それが、マラリアであった。


 太平洋戦争が始まると、この疫病は南方の戦地で兵を蝕んだ。


 比島、ニューギニア、ビルマ――。


 銃弾よりも多くの兵を死に至らしめたのは、敵兵ではなく熱帯に巢食う蚊の群れであった。


 マラリアに感染し、熱と昏睡に沈み、動けなくなった戦友を、彼等は置き去りにした。


 その断末魔の苦しみは、いまも旧軍の行軍記録の行間に残っている。


 戦後、日本のマラリアは根絶への道が開かれていった。


 1950年代、農地を干上がらせ、殺虫剤を散布し、蚊の楽園を潰していった。


 シナハマダラカは駆逐され、日本からマラリアは姿を消す。


「日本はマラリア清浄国」――そう宣言されたのは、1960年代である。


 そして令和の今――再び、東京に響き始めた羽音は、過去の悪夢を呼び覚ます。


 マラリアは過去の病ではなかった。


 それは、地獄から蘇り、東京に上陸した。






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