第48話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 1
六本木、南陽熱帯医学研究所、柘植研究室の白い無菌室の金属の机の上に李雪蘭によって並べられた小瓶は、いまだ霜を帯びて冷たい息を吐いていた。
ハイエンドの電子顕微鏡とPCR機器装置が目の前に無造作に置かれている。
それを目の当たりにした達郎は、己の鼓動が速まるのを抑えられなかった。
李雪蘭は、その様子を見つめながら、まるで遊戯を持ちかける子供のように声を潜めた。
「先生……実は、新しいお仕事をお願いしたいのですが」
彼女が、机に置いた資料には、化学式と矢印で描かれた奇妙なフローチャートが乗っていた。
そこには RNAa(RNA活性化) の四文字が赤くマークされていた。
「ここにお持ちした新種の羽斑蚊のcDNAを鋳型に、標的遺伝子に対応する二本鎖RNA――dsRNAを合成してください。それを今、育てた羽斑蚊に与えれば、特定の遺伝子の働きを活性化することができます」
拓郎の瞳が大きく揺れた。
「RNAa……発現活性化をさせるのか。だが、それは一時的な操作に過ぎない。継代しても消えるはずだ」
李雪蘭は唇に笑みを浮かべた。
「いいえ。私たちが求めるのは、その“一時”を繰り返し、飼育世代ごとに積み上げること。そうすれば、新しい性質を持った羽斑蚊が――確実に定着します」
彼女の目は、氷の刃のように輝いていた。
「成虫に直接微量注入をしていただいてもいいし、幼虫の餌に混ぜてもいいんです。
やり方は先生にお任せします。……そして、新しい特性を持った成虫を育ててください」
殺菌灯の白い光が、鋭利な刃物のように安全キャビネットの卓上を照らしていた。
今、達郎の指先には、かつて大学院で慣れ親しんだ精緻な感覚が甦っている。
試験管の中で合成された二本鎖RNA(dsRNA)。
cDNAを鋳型にして増幅し、酵素反応で組み上げられたその断片は、わずか数十ナノグラムに過ぎない。
だが、それは虫体の標的遺伝子を目覚めさせる鍵――毒にも薬にもなり得る「見えざる刃」である。
柘植は顕微鏡を覗き込み、微小操作装置を作動させた。
固定された成虫の胸部がわずかに脈打つ。
そこへ極細のナノサイズのガラス針を滑らせるように差し入れる。
「……入った」
かすれた声が漏れる。
シリンジを押し込む。
透明な液が流れ込み、わずかに羽が震えた。
その刹那、蚊の眼が光を反射した。
生命の奥にdsRNAという異物が刻み込まれた瞬間だった。
背後で李雪蘭が見守っていた。
その眼差しは、子供が玩具をもてあそぶ時の無邪気さと、獲物を鋭く狙う蛇の冷酷さが入り混じっていた。
「先生……これで、この子は新しく生まれ変わります」
柘植は手袋の中で汗をかいていた。
科学者としての超人的な技術を奮う興奮と、自らが神の創った遺伝子を改組するという背徳的な作業に対する罪悪感が、胸の奥でぶつかり合う。
彼の気持ちとはうらはらに針が抜かれ、dsRNAが蚊の体内で沈黙の作業を始めていた。
顕微鏡の中で、小さな羽がゆっくりと動いた。
それは生の震えであり――同時に、東京の未来を悪夢で蝕む惨劇の前触れだった。




