第47話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 42
三人は埼京医科大学病院の、研究棟、破傷風トキソイド作成プラント棟に戻った。
既に夜の帳は落ち、窓外に灯る蛍光が煌々と光っていた。
阿羅業は、机の上に積まれた資料を手で払うようにどかし、空いたスペースに分厚い承認書を置いた。
厚労大臣・鍬形崇真の押印が赤々と残り、まるで吐き出した血反吐のように滲んでいた。
「……これで、数多の命を救うことが出来る……」
阿羅業の声は掠れていたが、その瞳は鋭い光を帯びていた。
片山秀人が煙草に火をつけ、煙を深く吐き出した。
「二日でここまで漕ぎつけるとはな……だがこれでも、時間はたらねえわな。死神は待ってくれない」
赤嶺丈二が巨体を揺らし、白衣を肩にかけた。
「トキソイドもグロブリンも、一滴の無駄も許されねえ。俺たちの力で運んでやるさ」
研究棟の奥では、ステンレスのタンクが低く唸りを上げていた。
冷却装置が稼働し、無菌室の空気が震える。
培養室にはすでに試料が並び、作業を待つ職員たちの眼差しは張り詰めていた。
阿羅業は手袋をはめ、目の前の培養槽を見据えた。
「戦争で奪われた命が巡り巡って、今度は命をつなぐ薬を作る。無念の内に散らされた命には報いなければならない、これが俺たちに課された天命だ」
片山が頷き、丈二が笑った。
「いいじゃねえか。闇が転じてが光に変わるなら――これ以上の痛快はねえ」
唸る大型遠心分離機の音が、遠雷の如き響く。
それは死の淵に呑まれんとする命を、この世に引き戻す闘いの幕開けをを告げる唸りだった。
ベッドの上の男の患者が全身を弓なりに反らせ、歯を食いしばり、痙攣の波に呑まれていた。
まだ若い。
集中治療室、ICUでは、モニターの警報音が途切れ途切れに響いていた。
人工呼吸器が肺に空気を送り込むが、時折り呼吸器と患者の呼吸リズムと合わなくなり、患者の咳嗽反射が誘発されて生じる、ファイティング現象がモニターの警報を響かせるのだ。
薬剤師がガラス越しに運んできた銀色のトレイ。
そこに置かれた二本の小瓶――
埼京医科大学が、鍬形厚労大臣が下した特例承認の下で、最初に精製された破傷風トキソイド、そして、ヒト抗破傷風免疫グロブリン。
ラベルは白紙に近く、『1』とただ、製造番号だけが赤く刻まれていた。
阿羅業神醫が瓶を手に取り、瞳に氷の光を宿す。
「……これが第一号だ」
片山が低く煙を吐いた。
「効きさえすればいい」
丈二が巨体を揺らし、無言で注射器を満たす。
針先でほの白く光る雫の一滴は、まるで生と死をかける天秤に載せる分銅のようだった。
患者の腕に刺される鋭い針の一閃。
透明な液が静脈に流れ込む。
同時にグロブリンも筋肉に注入された。
室内の空気が凍り、誰もが呼吸を止めた。
一瞬の静寂の後――
痙攣が途切れた。
固く閉じていた顎がわずかに緩み、反り返っていた背筋がベッドに沈んだ。
モニターの波形が整い始め、アラームが低く落ち着いた音に変わった。
看護師が声を上げた。
「……効いた……、効いています!」
阿羅業は腕を組み、低く呟いた。
「戦時中の亡霊が蘇って、たった今、途切れかけた命をつないだ……実に皮肉だな」
片山がにやりと笑い、丈二が長く息を吐いた。
長い夜が明け、治療室の中に差し込む陽の光が燦燦と患者の命を照らしていた。




