第46話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 41
「まあまあ、鍬形先生、いや鍬形博士先生。お察しの通り、お願いがあってまいりました。実は、破傷風の治療薬が市場から枯渇しているのはご存じだと思いますが、うちの大学で、予防用のワクチン・トキソイドと、治療用免疫抗体の製造の特例承認をいただこうと思いましてね」
片山が卑屈な態度で、上目勝ちに語る。
革張りの椅子に沈み込んだ鍬形崇真は、五月蠅そうに、灰皿に葉巻を押しつけ、片手でOKマークを作って見せた。
「何の寝言だ。そんなもの許可できるはずがないだろう。――で、持ってきとるんかい?」
親指と人差し指で作った丸は、金の匂いを要求する合図だった。
かつて数多の業者や官僚を屈服させてきた、鍬形の常套手段。
だが、その時、阿羅業はにやりと笑い、黒いファイルを机に置いた。
「金の代わりに、もっと面白いものを持ってきた」
鍬形の眼光が鋭くなった瞬間、阿羅業は別刷り冊子を広げた。
「『ニホンザル下腿皮膚の薬剤耐性真菌による劇症型真菌症の細胞病理学的所見の検討』、筆頭著者は――帝響大学、第二病理学教室、鍬形崇真」
その名を読み上げると、鍬形の顔色が一瞬で変わった。
だが、すぐにふてぶてしい笑みを取り戻し、声を荒げた。
「こ、これがどうした。俺様の学位論文が、何だというのだ!」
阿羅業は冷酷に笑い、さらに黄ばんだ論文を机に叩きつけた。
「これは、戦時中の旧日本陸軍防疫給水部の、鍬形有正軍医中尉が、まぁ、いうまでもなくあんたのお父上だが、執筆した論文――『満州人女児ノ下腿皮膚ニオケル薬剤耐性真菌ニヨル劇症型真菌症ノ細胞病理学的所見ノ検討』。さらに、詳細な実験ノートも一緒にな」
鍬形の手が震えた。
頁をめくれば、表も図も、一字一句、数字まで同じ。
違うのは対象が"ヒト"から"サル"に差し替えられただけ。
「……!」
片山がにやりと笑った。
「最後まで言わせるなよ。あんたは親父の論文をそのまま丸パクリして、博士号を手に入れた。だがもっと致命的なのは、その実験が人間をモルモットにした残虐、重大な戦争犯罪だったってことだ」
丈二が巨体を揺らし、低く唸った。
「もしこれが世に出たらどうなる? 医療行政の大重鎮だかなんだか知らねえが――キャリアは終わりだぜ」
鍬形は汗をぬぐい、唇を噛んだ。
長年隠蔽してきた父の罪、そして自らの不正が、いま亡霊のように目の前に蘇った。
沈黙の後、鍬形は掠れた声で吐き出した。
「……特例承認を、出せばいいのだな」
阿羅業は目を細め、短く頷いた。
「それでいい。奪った命に対するわずかな償いだ」
二日後。
厚生労働大臣・鍬形崇真の署名により、埼京医科大学感染症センターに対して破傷風治療薬・予防ワクチンの特例製造承認が下りた。




