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第43話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 38

 転職、初日。


 達郎に与えられた小さな研究室の顕微鏡の下に並ぶ培養皿はまだ空だった。


 達郎は、そこに自らの未来を築こうとしている。


 その背後から、鈴のような声がした。


 振り返ると、まだ幼さを残す中国人の少女が立っていた。


「先生、わたしが今日から助手を務めます。名前は――李雪蘭リ・シュエラン


 黒い瞳は澄んでいながらも、底知れぬ光を宿している。


 肩までの髪が風に揺れ、薄い白衣の袖口がわずかに震えていた。


孑孑ボウフラ採りに行きましょう」


 拙い日本語と笑顔。


 達郎の胸に、久しく失われていた温もりが差し込んだ。


 二人は荒川の河口へ向かった。


 夕暮れの川面は濁流の残り香を漂わせ、ヨシの根元に水溜まりが広がっていた。


 そこには無数の孑孑が黒い影となって蠢いていた。


 達郎がスポイトを沈めようとしたとき――。


「きゃっ!」


 李雪蘭がわざとらしく足を滑らせ、細い体を達郎に預けた。


 反射的に伸ばした腕に、少女の体がすっぽりと収まった。


 その瞬間、達郎の胸に触れる鼓動は小鳥のように速く、そして確かに、生きていると訴えていた。


「……すみません」


 彼女は赤くなった頬を隠すように俯いた。


 達郎は答えられなかった。


 腕に残った感触が、失職と孤独に沈んでいた心を震わせたからだ。


 川面に映る影は、赤黒く揺れていた。


 日が暮れてきたのだった。


 夜の帳が降りる頃、達郎と李雪蘭は、荒川河口で掬った孑孑の瓶を携えて戻ってきた。


 ガラス瓶の中では、小さな黒い影が水面を震わせていた。


 それは命であり、病の萌芽でもあった。


 研究室の蛍光灯が白々と輝き、無数の空のトレイが整然と並んでいる。


 李雪蘭は両手で瓶を抱きしめるように持ち、


「先生、これが最初の……わたしたちの仕事ですわ」


 と、小さく囁いた。


 達郎は無言で頷き、瓶の口を慎重に開いた。


 水が流れ、孑孑が黒い糸のようにトレイに散っていく。


 次の瞬間、彼らは一斉に尾を震わせ、水面を細かく揺らした。


「……生きている」


 達郎の声は震えていた。


 自分が失いかけた研究者としての存在証明、今ここに甦っている。


 濁った川の水から拾い上げた命に支えられて。


 李雪蘭は達郎の横顔を見つめ、微笑んだ。


「先生が育てれば、この子たちは必ず大きくなる。それが、世界を変える力になるんです」


 甘美な言葉に、達郎の胸は熱くなった。


 孤独に苛まれた年月の空白を、この小さな命と少女の言葉が埋めていくように思えた。


 あっという間の、一週間が過ぎた。


 並べられた培養トレイの水面は、数日前までは静かに波紋を描くだけであった。


 だが今は違う。


 孑孑は蛹へと変わり、やがて羽化し、薄い羽を震わせて宙に浮かび上がった。


 李雪蘭はその光景を、まるで宝石でも眺めるような目で追っていた。


「先生……成功です。羽化しました」


 達郎は顎を引き、黙って頷いた。


 羽根を持つ成虫は、次々とメッシュの壁に突き当たり、狂ったように羽音を響かせる。


 それは軽やかではなく、不吉な低音の合唱であった。


 顕微鏡の下で眺めてきた数値や標本とは違う。


 いま眼前にあるのは、生きた、脈打つ害虫そのものだった。


「……これが、俺の仕事か」


 呟いた声は、かすかに震えていた。


 李雪蘭は笑った。


「大丈夫です。先生がいれば、彼らは必ず育つ。そして――きっと役に立つ」


 その笑みは無垢に見えたが、瞳の奥には氷のような冷たい光が宿っていた。


 達郎の胸に、不安と誇りが同時に芽生えた。


 腕に抱いたはずの未来が、鋭い羽音に掻き消されていくようにも思えた。


 やがて、羽音は研究室全体を覆い尽くしていった。


 羽ばたきは、災厄の嵐の前触れのように重い風を運んでいたのだった。

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