第42話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 37
柘植達郎の報告を聞いた広瀬綾香は、胸の底から安堵の息を吐いた。
だがその安堵は、長くは続かなかった。
「勤務地は六本木。センタービルの26階だそうだ。熱帯医学の研究所、立派な組織らしい」
達郎の言葉はどこか誇らしげだった。
その表情に、彼女は久しく見なかった光を感じた。
だが、胸の奥で冷たい違和感が膨らんでいた。
柘植達郎が選んだ新天地――財団法人南陽熱帯医学研究所。
――六本木。
――熱帯医学。
――待遇が良すぎる話。
カルテを閉じ、広瀬綾香は窓の外を見やった、北新宿の医局からも六本木の摩天楼が見える
待遇は破格、勤務地は東京の一等地。
「……熱帯病……ねえ」
口の中で転がすように呟いた。
マラリア、デング熱、黄熱、シャーガス病――
どれもアフリカや南米、貧困にあえぐ地に巣食う病だ。
新薬を開発したところで、最貧国の患者が相手では金にならぬ。
製薬会社が巨額を投じても、簡単には回収できるはずがない。
なのに、なぜ六本木。
賃料の高いこの摩天楼に研究所を構える必要があるのか。
貧困国の病の治療を目標に掲げ、金の匂いのする街に拠点を構える――。
その矛盾が、彼女の胸を刺してやまなかった。
「……研究そのものが、表向きに過ぎない……」
思いが言葉となって零れた。
甘すぎる条件、妙に洗練されたオフィス、曖昧な研究内容。
疑念は疑惑へ、そして予感へと形を変えていく。
綾香の眼差しは鋭さを増し、深夜の医局に冷たい光を落とした。
安堵の影に潜んでいた黒い影――
それが、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
医療の世界では、数え切れない“裏の話”が囁かれる。
あり得ない条件を提示する研究所。
学者を甘言で囲い込み、表に出せぬ実験に利用する組織。
「よかったわね……達郎さん」
一度は、彼の未来に微笑みを浮かべたが、今は、霞のような不安がよぎる。
机の上のPCの液晶に写るカルテの文字が、急に滲んで見えた。
胸の奥で、女の本能が小さく警鐘を鳴らしていた。
安堵と不安。
二つの感情が綾香の心に絡み合い、長い影を落とす。
「……大丈夫かしら?」
心の奥のその違和感は、夕暮れの医局の静寂に溶け、まだ答えのない影だけを残していた。
最凶医大の薄暗い廊下を、白衣の裾を揺らして歩く男がいた。
阿羅業神醫――顕微鏡の奥に眠る死者の記録を掘り起こし、生者のために使うと嘯く、神の手を持つ異端の医師。
副医局長室の扉を叩いた。
広瀬綾香が顔を上げた。
机の上には、南陽熱帯医学研究所の資料が置かれていた。
「呼んだか……。まあ、婚約者の転職おめでとう、と言うべきかね」
阿羅業の声は低く、鋭い。
綾香はうなずいた。
「ええ。やっと、彼がまた研究に戻れる。待遇も申し分ないそうよ」
だが、その笑みはどこか引きつっていた。
阿羅業の眼差しは鋼のように冷ややかだった。
「六本木の、南陽熱帯医学研究所……聞いたことはある。だが、あそこは表の貌と裏の貌がある組織だと思う」
綾香の指が震えた。
「……裏の貌?」
阿羅業は机の上の資料を指先で叩いた。
「甘すぎる条件で人を囲う場所は、必ず何かを隠している。奴らが求めるのは学者の知識じゃない。“使い潰せる便利屋の手足”だ」
綾香は目を伏せた。
胸の奥にあった違和感が、鋭い棘となって心を刺した。
「……まさか、達郎さんが……」
阿羅業は長い吐息を漏らした。
「少なくとも、あそこのラボと、うちの医局と交流はない。だからはっきりとしたことはいえないが、まあ、六本木のヘッドタウンのオフィスの賃料何百万かをポンと払えるということは、相当儲かっているのだろうな。ただ俺の目に映る実態はそれ以上でも、それ以下でもない。いわば、影だ。影の中に足を踏み入れた者の中には、二度と陽の下に戻れぬ者もいる。珍しい話じゃない――彼を見失うな、綾香」
窓の外、夕陽が赤黒く沈んでいった。
その光は希望の赫ではなく、嵐の前の血の色に見えた。




