第41話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 36
夜の六本木、東京ヘッドタウンオフィス。センタービルの26階、夜景を一望するガラス張りの豪華な応接室は、現実離れした光に包まれていた。
柘植達郎は、一張羅のスーツに身を包み、普段は座らない高級椅子に腰を下ろしていた。
現れたのは、切れ長の目を持つ中国人研究員の女。
白衣ではなく、都会的なビジネススーツ。
だが、指先の仕草や発音に、学究的な鋭さがにじんでいた。
「柘植さん、我々の研究所は"熱帯医学"を専門としています。あなたの専門知識――昆虫生態学、特に水生幼虫の扱いに長けた専門家は、我々にとって貴重です」
滑らかな日本語。
そこに織り込まれた微かな異国の響きが、柘植の胸をざわめかせた。
彼女は契約条件の書類を差し出した。
給与は前職をはるかに上回る額。
研究費も潤沢、家族の住居費も保証する条件。
「安心して働いてください。あなたの実績を正しく評価させていただきます」
柘植の喉が鳴った。
オファーをうければ、怯えていた婚約者との破談、失職、そして漂流する日々、失われるはずの未来を、取り戻すことが出来る……。
大金、研究環境、そして「必要とされる場所」が、この書類に詰まっているように思えた
「……仕事の内容は?」
女は微笑んだ。
「熱帯病を媒介する羽斑蚊の生態を解明するための、幼虫の飼育と観察です。安全で、そして、あなたにしかできない仕事」
柘植は深く息を吐いた。
孑孑――それは彼が博士論文で費やした十年の象徴。
「育てるだけなら……楽なものだ」
女の眼がわずかに細められた。
その奥に、氷のような凍てついた光が宿っていた。
しかし柘植は、それに気づかなかった。
「……やらせてください」
その言葉が口をついた瞬間、女はゆっくりと微笑んだ。
ガラスの窓越しに広がる六本木の夜景は、都会の輝きではなく――
暗い水面に堕ちた光の散乱のように、柘植の瞳に映っていた。
面接を終えた柘植達郎は、地下鉄に揺られながら携帯を握り締めていた。
心臓はまだ早鐘を打っていた。
「新しい仕事が……決まった」
そう呟いた声は、自分に言い聞かせるように掠れていた。
翌日。
最凶医大の四内副医局長室。
広瀬綾香は書類に目を落としていたが、達郎の声に顔を上げた。
「……採用が決まった。南陽熱帯医学研究所だ。勤務地は六本木だって」
一瞬、綾香の瞳に光が走った。
「ほんとうなの……?」
声は震えていた。
彼が無職となり、未来を失う日々を案じていた。
夜毎のため息、閉ざされた目の奥の陰り。
その重さを、彼女は身をもって感じていた。
達郎は頷いた。
「給与待遇も悪くない。研究も、またできる」
綾香は机に置いた手を震わせ、やがてそれを胸に当てた。
「……よかった。達郎さん、ようやく……」
声は途中で途切れ、代わりに瞳に涙が滲んだ。
しかし……彼の背中から漂う疲弊の影は、まだ完全には消えていなかった。
だが、彼女には見えた。
それは未来を閉ざす闇ではなく、再び光を探そうとする男の影だった。
「綾香……未来を必ず取り戻す」
達郎の声は低かった。
だがそこには、折れかけた男が立ち上がる決意が宿っていた。
広瀬綾香は静かに頷いた。
「……私は、あなたを信じてる」
最凶医大の窓から差し込む夕陽は赤く、二人の影を長く伸ばした。
その影はまだ脆く揺れていたが、確かに同じ方向を向いていた。




